嵯峨野讃歌である。著者は嵯峨野に最もふさわしい人であろう。主客も今昔も、渾然一体となって、文学的な次の一節など、それを象徴するように思われる。
嵯峨野の花々と、恋をあきらめてそこはかとかくれすんだ女たち。どの花がどの女のおもかげを伝えているのか、今も静かに嵯峨野を歩いていると、思わず、物語の昔と今が、渾然ととけまじって、自分がいつの時代に住む人間であったのかと、不思議な迷いの霧にとじこめられてしまうのである。
本書タイトルの「みち」は、大通りではなく、「迷うほどなつかしい」細道である。次の一節は寂聴という名のとおり耳を澄まして【寂】びさびと古の声に【聴】き入る心境を示すものであろう。
私は鮮やかで美しい、そしてひなびたということばがいかにもふさわしいこの奥嵯峨野小道をたどる時、いつでも信仰に名をかりて煩悩のほむらをしずめるための何げない逃避のよすがとしてこの道を歩いた昔の女たちのため息が、風の中から聞こえてくるような気がしてならない。
嵯峨野に住みつき、何十年にもなる。おそらく終の棲家とするのだろうが、本書のしめくくりは、次の一文である。静けさの中にさまざまな嵯峨のつぶやきやささやきも、こちらが心を澄ました時にだけ流れこんでくる、と述べた後に続く文である。
嵯峨野に自分が溶かされきって、無限の世界につれだされたような法悦がある。
【法悦】が瀬戸内寂聴の内面を示すキーワードであろう。