澁澤龍彦的なるもの、というものは、確かにこの世に存在する。澁澤龍彦が愛したようなものが好きだという趣味、現象だ。
手が込んで複雑であったり、歴史的文学的背景があったり、不気味で衒学的であったり。
それをわたしは、ある種「通俗的なるもの」と考えている。
澁澤龍彦的なものを好む人の趣味は、おそろしく個人差が小さい。何人集めても標準からの隔たりを発見することは困難だ。
ゴスロリの少女服がどれも同じに見えるように。
やはりこれは、ある種の通俗だと思う。
正直に言えば、わたしはちょっと苦手である。
四谷シモンの人形や、ウニの殻、骨格標本などを見ると、ほこりがたまりそうだと思うのだ。
金子國義や加山又造の絵を見ると、線が細すぎやしないかとイライラするのだ。(いや、だからって、キース・ヘリングみたいな太い線で書かれても苛つきますけど。)
その、なにかややこしそう、手入れが大変じゃないかと思う面倒くささが、実物ではなく本になったとたんに、意外と面倒でなくなくなるのだ。
物理的な事情にすぎないが(紙の表面はつるつるして、ほこりなんかたまらない)、わたしの澁澤苦手感の大部分がその面倒くささであったことに気づけたのは、ちょっとした発見である。
本で見る分には、そう嫌な物ではない。いや、むしろ好ましいかもしれないと思ったのだ。
とにもかくにも、とても手の込んだものだから。