谷崎潤一郎が現代語訳した源氏物語は、主語を補っていないと言われることがありますが、それは世間の誤解でして、原文と比較すれば主語をかなり補っています。行き過ぎた主語の挿入を控えながらも、谷崎は読みやすさにかなり配慮したように思います。
■原文(桐壺)
みこ六つになり給ふ年なれば、このたびは覚し知りて恋ひ泣き給ふ。年頃なれば睦びきこえ給へるを、見たてまつりおく悲しびをなん、返す返すのたまひける。今は内裏にのみさぶらひ給ふ。
■谷崎の現代語訳
御子が六つにおなりになった年ですから、今度は様子がお分かりになるので、恋い慕うてお泣きになります。祖母君も、年ごろ自分に馴れ親しんでおられたのを、みすみす後にお残し申してこの世に暇を告げる悲しさを、繰り返して仰せになったのでした。もうそれからは、若君は内裏にのみばかりいらっしゃいます。
さて、近頃は、源氏物語から敬語を省略しながら現代語訳をすることが、なにか気の利いた読者サービスであるかのような宣伝をたびたび見聞きします。しかし、源氏物語の敬語というものは、おろそかにできないものだと思います。
まず、貴族を貴族らしく物語るために敬語はとても大切です。貴族の物語から敬語を省くということは、貴族を庶民扱いすることになりかねません。また、源氏物語という絵空事にリアリティーを与えるために、できるだけ多様な敬語を縦横無尽に駆使して貴族社会のディテールをしっかり描き込んで行くことも、読者を物語世界に引き込むうえで、とても大切な表現技法なのだと思います。
実際、源氏物語の原文には、給う(なさる)・侍り(ございます)・おぼす(お思いになる)・奉る(させていただく)・聞こゆ(申し上げる、おおせになる)・聞こし召す(お聞き遊ばされる)などの敬語表現がすごく多いです。文字数をカウントすれば、全体のおそらく1割ぐらいは敬語表現に用いられていることでしょう。
このような源氏物語から敬語を省いて現代語訳するということは、いわば源氏物語絵巻をモノクロ写真で見るようなものです。モノクロ写真では、絵巻の構図こそ分かるものの、色を見たり感じたりすることはできません。敬語を省く現代語訳もこれと同じことで、物語のあらすじこそ分かるものの、平安貴族の優雅さや宮廷行事の雅やかな雰囲気が乏しくなってしまうのは、避けられないことでしょう。
また、日本語の性質として、敬語を用いたり前後の文脈から推測したりすることで、主語をある程度省くことができるという特徴があります。これをうまく利用すれば、源氏物語のように複雑な人間関係や内面心理を描こうとしている文学作品も、滑らかな語り口で物語を叙述することができます。
つまり、貴族を貴族らしく物語るためには敬語表現が欠かせないし、その敬語表現があればこそ、日本語の特徴である主語の省略が可能になり、滑らかな語り口で物語ることもできるようになるのです。たとえば、源氏物語の夕霧の帖から抜粋した次の場面では、敬語を使い分けることで、登場人物三名の動きをたった一つの文で物語っています。
■原文(夕霧)
あさましうて見返りたるに、宮はいとむくつけうなりたまひて、北の御障子の外にゐざり出でさせ給ふを、いとよう辿りて引きとどめ奉りつ。
あさましうて見返りたる・・・落葉の宮に仕える女房の行為
ゐざり出でさせ給ふ・・・落葉の宮の行為
辿りて引きとどめ奉りつ・・・夕霧大将の行為
このように、源氏物語のような古い物語では、『敬語表現と主語の省略』は互いに切り離せない表裏一体の関係にあります。
敬語なくして源氏物語なし。
敬語表現は源氏物語の根幹を支えているのです。
このことを、谷崎潤一郎は百も承知していたことでしょう。だから、谷崎はけっして敬語をおろそかにしませんでした。そして、『敬語表現と主語の省略』が表裏一体となる語り口を、千年前の古い日本語から現代日本語に置き換えて実現すべく、源氏物語の現代語訳に挑んだのです。
その結果、谷崎源氏には、原文の敬語表現をできるだけ現代日本語に置き換える心配りが随所に見受けられ、その美しくも巧みな敬語の言葉遣いは、どこまでも唖然とさせられるばかりの見事さです。(敬語を省略した現代語訳が子供の作文に見えて気の毒になってしまうほど)
そして、敬語表現を豊富に取り込んでいることが、主語の省略も容易たらしめ、水が流れるように滑らかな語り口で、源氏物語の世界を物語っています。谷崎源氏は、まさに千年前の物語を現代日本語に置き換えたものであり、他に類を見ない素晴らしい現代語訳だと思います。
心ある読者のみなさんは、ぜひいちど本書をお手にとってご覧になり、現代最高の日本語にお触れになってみてはいかがでしょうか。