本書はもともと国際交流基金からの「日本における漢字の問題を、日本に関心を持つ外国の人たちに紹介する文章を書いて下さい」という依頼に基づいて書いた日本語原稿(本文は英語)をベースに新書としたものである。平成13年のベストセラー。確かに売れただけのことはある。大変面白い、興味深い日本語論でした。
著者の考えのポイントは、第一に、漢字と日本語はあまりにその性質が違う為にどうしてもしっくりこないが、しかしこれでやってきたのであるからこれでやっていくほかない。第二に、我々のよって立つところは過去の日本しかないのだから、それが優秀であろうと不敏であろうと、とにかく過去の日本との通路を絶つようなこと(日本語を廃止して英語やフランス語を「国語」にするとか、あるいは漢字を全部廃止してカタカナやひらがな、アルファベットで日本語を表記するようにするとか)をしてはいけないのだということ。この二つに尽きている。
本書は大別して二部構成になっていて、1章から3章までは「日本語の発達の歴史」「日本語と漢字のかかわり」「日本語本来の性質と漢字の持つ性質が如何にそりがあわず、日本語にとって漢字が如何にやっかいな重荷であり続けているか」「にもかかわらず日本語にとって漢字は不可欠な要素であり続けた。とりわけ明治以降、文明開化、西洋化の荒波を日本語がかぶる中で、西洋語を翻訳した大量の漢語を日本人が作りだす中で、日本語と漢字のねじれた癒着は一層密になり、著者言うところの漢字と日本語の腐れ縁が決定的になったということ」の説明に費やされ、第四章は、こうした「日本語と漢字の腐れ縁」「漢字という重荷の重圧」から日本語を解放すべく、繰り返し主張され、かつ文部省と結託した国語調査委員会の「漢字削減」「日本語の表音文字化」の歴史をまとめたものである。
本書を読むと、確かに漢字という、もともとシナ人がシナ語を表記する為に作りだした表意文字が、それまで文字を持たなかった日本に輸入されたが故に、日本語と深い関わりを持つようになり、それが日本人にとって「漢字のくびき」として今に至るまで激しい重荷となっていることが良く分かる。梅棹忠夫は「漢字こそが文明を劣化させる諸悪の根源」と結論付け、彼はその著書でこれでもかこれでもかと脱漢字、日本語のかな表記を主張している。ご丁寧にも梅棹は、二人いる自分の息子の名前を全部カタカナにしている(笑。一体、漢字の何が重荷なのか。第一は、シナ語と違って音が極めてシンプルで、かつ全ての文節に原則母音がつく日本語の音声の特殊性から、漢字・漢語を輸入したことで、日本語には「漢字にしないと区別できない膨大な数の同音異義語が発生したこと」にある。西洋等の言語学者は「言語の基本は音であり、文字はそれを表記した影にすぎない」という立場をとる。言葉というのは聞いたらすぐわかるのが原則で、同音異義語などというものは滅多にない(あってはならない)のが基本だと言う(それが故に、西洋語もシナ語も膨大な数のイントネーションの別が存在し、音で単語を区別している)。日本語はそうはいかない。前後の文脈から皆さん瞬時に判断して、この文脈ならこの漢字と情報処理をしているからなんとか辻褄があっている。ところが時たま、これが上手くいかない時があって、その代表例として著者が提示したのが第一章第一節の表題にもなっている「カテーの問題」である。これは関西で起きた幼児連続殺事件を犯した中学生の犯人が捕まった時、その中学生が通っていた中学の校長先生が新聞記者に「それはカテーの問題でしょう」と答えたところから騒ぎが始まったことをとらえての話である。校長先生は「それは仮定の問題でしょう」と話したつもりだったが、記者の方は「それは家庭の問題でしょう」と校長先生が犯人の家庭に全責任を押し付けたかのように受け取ったと言う話だ。
漢字には二文字にしないと言葉として安定しないという欠陥があるそうで、それが故に日本語にも似たような漢字を並べた皮膚、福祉、樹木、闘争などという膨大なシナ語が入り込んでいる。これをいちいち覚えなくてはいけないので、それが重荷だと著者はいうのである。
それに日本人は似たような意味を持つ漢字にもともとあった日本語をくっつけて読む「訓読み」というものを発明した。本来サンと発音する山という漢字をヤマと読むようになったのがその例だ。日本人はこれを当たり前のものとして処理しているが外国人にこれを理解させるのは至難である。
江戸時代になり文化が繚乱してくると日本人は漢字を組み合わせて和製漢語を作り出す。それがシナ人にはちんぷんかんぷんな組合せであるという。例えば「野暮」。シナ人はこれを野原の夕暮かと思うが日本語の意味は「ださいこと」である。以下、世話、心中、無茶、家老と続く。無茶のことをシナ人が「お茶が品切れになったこと」と思うとは知らなかった。そして明治維新。この時、日本人は西洋から持ち込まれた膨大な概念を全て漢字を組合わせることで処理した。その数は膨大で著者は数千数万語といっている。その多くは日本発の外来語として今でもシナでしっかりと使用されている。例をあげると覇権、白金、白旗、白熱、版画、理念、冷蔵、理論、人民、共和国などなど。
著者の視点が爽やかなのは、シナ語を日本語の重荷と断定し、それを体に癒着してしまい今さら切除するとへたをすると日本語そのものを殺しかねないものとした上で、漢字と日本語の関係を腐れ縁と定義し、もともと日本語の体質に合わず永遠にしっくりこないけれども、それなしにはやってはいけないのだから、そのまま付き合っていかざるを得ないと開き直っているところである。漢字と日本語の関係は、そのまま日本と中国の関係を暗喩しているようで面白い。
あと私が全面的に賛成するのは、著者が西洋発の進歩主義を全面否定している以下の部分だ。「人類の諸種族は、一本のまっすぐな道を目的地にむかってあゆむ多くの人々のようなものである。ある者は元気よく先頭を進んでいる。ある者は中間あたりをのろのろ歩いている。ある者は最後尾で立ち止まったままである」これが西洋人の歴史のとらえ方だ。「実は人類諸種族の生活というのは、いろいろなところで遊んでいる子供たちみたいなものだ。山の上、森の中、野原、川っプチ、海辺とそれぞれの環境条件に応じ、またそれぞれの種族の性格に応じて遊び方が違う。それぞれの遊び方に優劣はなく、今は遅れているように見えても、そのうち工夫して気のきいた方法を発明するかもしれない。だから違っていても放っておけばよいのである。ところが自分と違うことを一切認めず、口を出し手を出すお節介が西洋人なのである。一番迷惑なのは自分たちの神様が唯一のほんとうの神さまだと思って、世界中に自分たちの神様を押し付けて回ることだ」。
シナ文明と日本文明の間に優劣が無いとする以下の記述も痛快だ。「中国には二千年も前から文字があったのに日本にはなかった。これは中国の文化が優れた文化であり、日本の文化は劣った文化だからだと思っている人があるが、そうではありません。中国の文化は早く生まれた文化であり、日本の文化は遅く生まれた文化なのです。文化も個人と同じで、早く生まれる人もあれば遅く生まれる人もある。早く生まれたか遅く生まれたかは優劣に関係ありません。個人でも文化でも、これは同じことです」。