良くぞ出してくれました。
前著も泣けましたが、今度の本も号泣ものです。今度の本の中に、前著出版のいきさつが書かれていますが、それを読んで、実はいかにも中公らしいクールな編集になっていた理由が理解できました。しかし、今度の本は書きたいように書けたのでしょうね。おそらく版元としては脚注のつけ方にもこだわる著者にはたいへんだったでしょう。ですから、今度の本のほうが、小島大先生(評者は不遜な人間なので人を尊敬することがあまりないが、この著者に対してだけは敬意を表さざることあたわず)が、とてつもなく巨大なただのおっさん(もちろんすごいおっさんなのですが)であることがよくわかります。
実名入りで活字にできない罵詈雑言をぶちかまし、ヒマラヤをゴムぞうりで歩いているときにフランス人から本にしたらといわれてその気になって突然モーレツに執筆を始めたり、はたまた、言語学の調査にしか興味がないかと思いきや、観光ポイントはしっかり押さえていたり、調査を早めに切り上げては、皆既日食を見にいったり、あるいは、昼間からアルコールを飲んでいるところを誰かに見られたらと逡巡したり、実は、SFマニアだったりとか、ただの好奇心旺盛なおっさんとしての姿が目に見えるようです。しかし、ただのおっさんであることが不思議と感じられる連中が現実にいるのです。「先生は不思議な方ですね。決して政治思想や経済体制の議論には加わらないのに、言語に関しては私たちに言いにくいことをずばりと言ってのける。動詞の活用だとか諺だとか民謡だとか、浮世離れしたことだけを調べているのにラズ人やクルド人の心を惹きつける」とはトルコの諜報機関員の言ですが、不思議でもなんでもなく、この巨人の目はちっぽけな地面を這いずり回って生きている、ただの人々の苦しみや悲しみを見通す繊細で人情にあふれ、かつ少しだけ口うるさいおっさんの目なのですから。それは、政治やイデオロギーといった大きな物語に曇らされた目ではありません! 曇った目を持っているのはトルコだからでしょうか?イスラムだからでしょうか?間違いなく、そうではないでしょう。われわれ自身もその曇った目を持つひとりです。今流れているさまざまなニュースを見ればすぐわかります。
この巨人は、どのような状況にあっても、誰に対しても、そのようなまなざしを持ち続けます。その言語能力にも驚嘆しますが、言語が自己目的化することはついにありません。巨人にとっての言語は研究対象であると同時に、「ひと」を理解するための手段なのです。だから、この巨人は結末部分に登場するいつの間にか著者を閣下と呼ぶようになった監視役の警察官の目元に現れた深い苦悩と悲しみを見逃しません。その苦悩を言語学者であるのに無言で、そして一瞬で理解します。その圧倒的な人間理解の重さがあるから、今回も号泣ものだというのであります。