「古代の古典を原語で読むことのできないひとびとは、人類の歴史について、きわめて不完全な知識しかもてないにちがいない。」
19世紀アメリカの思想家H.D.ソローはその主著『森の生活』の中でこのように述べているが、当の紫式部自身も源氏の口を通じて次のように言っているのだから驚きだ。
「日本紀などは、ただ片そばぞかし。これら(古の物語)にこそ、みちみちしくくはしき事はあらめ。」(蛍)
つまり、古典とは歴史そのものであって、そこから明日への叡智を引き出すのにもってこいの「教科書」であると言っているわけだ。そこには、単なる試験用の知識にとどまらない、もっと深い人生の神髄がぎっしりと詰まっている。歴史の本質とは、文科省が「検定」しうるような分かりやすく体系だったものでは決してない、しかし、古典を原文で一字一句忠実に読み解くことは、間違いなく、わたしたちを自国、ひいては人類の核心的な理解へと近づける。今思えば、高校の授業でうたた寝なんぞしている場合ではなかったのだ!
ある文学作品が古典となって読み継がれる理由はもっぱらその内容によるのだから、苦心惨憺してまであえて原文で読む必要はない、という議論を耳にしたことがあるが、わたくしはそれに真っ向から異を唱えるものだ。原語の繊細なニュアンスや文体の美はもちろんのこと、その時代の人々が心に感じた事・思った事「そのもの」は他のいかなる言語によっても表現しえない。また、それを何代にもわたって読み継いで来た我が国の古人の感性や美的感覚といったかたち無き伝統も、現代語に訳した瞬間その大半が失われてしまうものと考える。たとえば、係助詞「こそ」「ぞ」「なむ」を訳し分けることなどほとんど不可能に近いといってよかろう。『源氏物語』を読めば分かるとおり、これらはもとの文脈の中にあってこそ絶妙(あるいは曖昧)な雰囲気を匂わすものである。では、古の人たちがそこから読み取ってきたものとは何なのか? わたしとしては、桜の花を愛でる日本人の繊細な価値観をここに垣間見るような気がするのだが。
二宮尊徳が苦心してやっと手に入れた書物が中国の大古典『大学』であったという事実は、正しいこと・人を動かすものが(探すまでもなく!)どこにあるかをわたしたちに教えてくれている。願わくば(これは半ば自戒でもあるが)、つまらない三文小説などにうつつを抜かさず、多くの人に第一級の古典と真摯に向き合って生きていっていただきたいものだ。