本書の著者は、洞山の禅の発語を全く読めていません。言うまでもなく、洞山の「洞」の字は、曹洞宗の洞の字です。宗旨をこれほど疎(おろそ)かにしている書物を堂々と出版して、何ら恥じるところが無い、というのは、日本曹洞宗という教団の、滅亡宣言に他なりません。
多くの禅学者が、禅録を読む際に、有限によって無限を読んでいますが、そういう読み方では、禅録を読むことは出来ません。無限によって有限を読んで、初めて禅の意味を結びます。
私は道元関係の本を多く拝見していますが、訳者たちが全て同様の誤りを犯しています。
それには、長い過去の来由があります。即ち、法・Dharmaの代りに釈尊を立て、法の代りに仏を立て、法の代りに三宝を立て、法の代りに法系譜を立て、法の代りに坐禅を立て、法の代りに道元を立て、法の代りに宗派を立てて来たからです。
それらは全て、自我の構造の問題であり、歴史として見れば、自我の構造を正しく「法仕様」に整えて来なかった、錯誤の歴史です。
自我の構造が無限に繋がっていなければ、有限によってしか、禅録を読めません。
キリスト教には、ecumenicalismがありますが、釈尊の遺誡に従えば、現在の日本仏教各宗派は、ひとつになるべき筈のものです。そうならない理由は唯ひとつ、坊さんたちの宗教力不足です。
釈尊のオリジナルの宗教は、現在の仏教各宗派を、「根源から、包括して、統一する」宗教です。丁度、Swedenborgの「真のキリスト教」が、キリスト教各宗派を、「根源から、包括して、統一する」ように。
Swedenborgによって、Martin LutherもJean Calvinも、地獄に居ることが目撃されています。道元が今、釈尊と一緒に暮らしているかどうか、分かる人には分かると思います。
分からない方々の為に記しますが、道元が法・Dharmaを創った訳ではありません。法を創造されたのは、神エホヴァである主イエス・キリストです。
道元は、自らを「真宰(しんさい、天地を主宰するもの)」の位置に置き、本来、人の力によってどうこう出来るものではない法を、坊主の果てしない優越欲求・完全欲求から「改竄」し、それによって、後学を誤りました(間違って導きました)。別言すれば、法を私物化・appropriateし (AC3670-2の後半) 、それに恣意的な抽象を加え(法の分節の多用)、自己の慾念から発している幻想の為に加工して、後学を「支配」しました。
この種の脱線は、道元に限りません。仏教史の殆ど全てが、錯誤の歴史です。例えば、華厳も、人間が犯した大いなる過ちの一つです。他は、推して知るべしです。