ジュネは自分が捨て子であること、犯罪者であること、男娼であること、そして仲間に対してさえ裏切り者であることに誇りを持っている。何故ならコレらは本質的に美しいからだそうである。チンピラのアンチ・テーゼとは次元の違う、発生その物からネガティブであることを強調するという、文学でしか有り得ない芸術形態だ。
ジュネの生涯もさることながら、彼の哲学というか生への理念のような物も一般人とはかけ離れている。イヤ、他の文学者や芸術家と比べてさえ、あまりに稀有である。自分の情けなさや、醜悪さ、弱さ、気持ち悪さ、ダメさ、汚さ、というようなネガティブな精神要素を、まるで第三者を評するかのごとく冷静にフェアーに観察し、それを徹底的に暴露する。そして、真に素直な心境というのは、たとえそれが背徳的な非道徳的な物であろうとも、人を傷つけることはなく、むしろヒタスラ共感を招く効果があるようで、それが彼の小説の魅力の基本になっているようにも思われる。実際ジュネの文には「恥」というような感じは少しも含まれてない。
さらに物語を終始覆っている独特の文体が示すように、彼の詩美な文体には(訳者の力量も手伝って)所々ダンテなどを思わせるような古典的で崇高な不陰気が漂い、ただでさえ艶かしいストーリーをいっそう魅惑の妖艶さへと引き上げている。そして同性愛。同性愛をカッコよく描いた文学スタンスってのはこの辺から確立されたのではないかと思われる。もちろん単なる平和な同性愛者ではない。彼が愛する男たちは本質的に「悪」の要素を孕んだ連中なのだ。
ジュネはコクトーによって発見され、サルトルによってその存在を弁護されるが、ジュネ自身は自分の生涯を肯定されることに感謝やなにかをまったく感じなかったそうである。そしてそういったジュネの感性を集結した「泥棒日記」。ジュネはこの作品を逆にサルトルとボーヴォワールに捧げている(半ば皮肉を込めて)。そして作品は日本に紹介され、石川淳、三島由紀夫、坂口安吾といったヤバイ物語を書かせたら指折りの面々に激賞され、その後の作品の翻訳は堀口大學などが手がけていることから見ても、ちょっとこれは純情な騒がれ方ではないということを感じざる得ない。しかし扱っている内容が、内容だけに、どんなに素晴らしい傑作でも表に出して公式の場で賛辞されることはマズ有り得ない。そこがまたアングラっぽくカッコいい。
僕はこの作品にて初めて、ゲイ・カルチャーに羨望を抱きました。