本書は東浩紀による政治的パンフレット。ハッキリ言えば、宮台真司叩き。構図としては東が同世代の北田と連帯し、上の世代の大澤の力も借りて宮台を相対化する。最若手の鈴木の役回りは読者の代理=表象で、宮台フォロアーからの離脱・移籍劇を演じてみせる。ま、主役級が揃って東大出身という点は、少々息苦しいが…
規律訓練型の秩序維持が象徴界(=第三者の審級)とともに失墜し、環境管理型の生権力ばかりが洗練化されつつあるという基本的な現状認識は、全員がほぼ共有している。宮台路線はこの世界での生き難さを緩和するために、「意味を通した強度(フィクショナルに意味を立てつつ、その廃棄から強度を調達する生き方)」を提唱する。東の批判は要するに、「それってアンタの実存の問題でしょ」(p121、p242参照)。大澤の方は「宮台は単純に大学に飽きているんだよ」と、さすがに元・同級生らしい分析(p305)。
ただ私としては、東と北田の野合に疑問も感じる。北田は良くも悪くもリベラリズムの枠内に留まっているが、東は露骨にリバタリアンに惹かれている。また、ともに「降りる自由」について語っても、北田が「許容する側」に視点を置いているのに対し、東は自分を「降りる側」としてイメージしたがっているようだ。さらに、東の言う「サブカルを見ることそのものの政治性」(p36)を、北田はそのまま肯定するだろうか。私個人は、サブカル研究の政治性というのは柳田民俗学の政治性みたいなモンだと思っている。
宮台叩きでは足並み揃えたものの、じゃあ代案を提起できているかと問えば、皆で頭を抱えているというのが実情。環境管理型権力が私たちから何を奪うかについても、レトリカルにしか示しえていないのが現状。これじゃ戦いにならないのも当然だよなァ…と感じた。