タイトルにも一部採用されたりしているが、ある意味「ヤマトとアメリカーの
ゆくしびかー」に浸食されまくって、過去から現在までにいたる沖縄が存在するこ
とは間違いない。
そのことを、ヤマトのメディアが無視する沖縄の識者らから沖縄に積極的に出向い
て様々な角度からの話を聞く、そしてその模様をネットでライヴ配信・ビデオ配信
しつつ書籍化も行うということ自体は素晴らしいことだと思う。
ただ、書籍の最終盤で宮台氏が「沖縄にも責任がある」的な発言をする点にひっか
かりを感じた。
現に騙されて利用され続けている沖縄人もたしかに悪いが、否応なしに騙している
側のヤマト人の一人とみなされざるを得ない立場の宮台氏からそんなことをわざわ
ざ多くの沖縄人は指摘されたくはないのである。
たしかに、ヤマトと沖縄の間に差別構造が存在する一方で沖縄社会内部でも本島
中南部の人間が本島北部や宮古・八重山あるいは奄美出身者を差別するといった、
日本社会全体の中ではマイノリティである沖縄人の社会の中にも、数十年前ほど強
烈なものではないにせよ、差別構造は存在する。
そのようなマイノリティによるマイノリティ差別が問題であることは間違いない。
ただ少なくとも、自身がヤマトと沖縄の間の差別構造の中にあってなおかつその中
で差別する側の立場に立脚し得る者はマイノリティによるマイノリティ差別につい
て語るべきでないし、そもそもその資格がないことに自覚的であるべきだろう。
(前述した宮台氏の発言は、少なくともそのような意味では自覚的かつヤマト社会
や個々のヤマト人に向けた確信犯的なものであると期待したい。)
マイノリティによるマイノリティ差別に言及可能な立場の者は、たとえば長年にわ
たりアメラジアン問題に関わってきたスティーヴン・マーフィー重松氏のような自
身もアメラジアンというマイノリティ的立場を逡巡しながら生きてきた者に限られ
るものと思われる。
マジョリティがマイノリティ内のマイノリティ問題を語るべきでないことは、たと
え当人が意図せざるとも、マジョリティによるマイノリティ差別を肯定する結果を
招来し得るリスクが高いのだから当然である。
「沖縄にも責任がある」ことを考える意味では、むしろ「弥勒世」(馳星周著)の
方がいいかもしれない。
薩摩侵攻以降、琉球・沖縄はなぜ抵抗ではなく馴致されて生きることを選択し続け
しかも性懲りもなく現時点まで幾度となくヤマトに騙されてきたのかがよくわかる
仕掛けが多数施されているからである。
同書の中での主人公(=沖縄社会内でのマイノリティたる奄美出身者だが、物心つ
いてからの育ちは沖縄)の視点から沖縄社会が対ヤマト、対アメリカー、対沖縄社
会内部といった様々な差別構造を重層的かつ多元的に有することを知るほどに、同
主人公同様に沖縄人はある意味覚醒しある意味最終的な覚悟を期するべきなのかも
しれないとの思いを強くするだろう。
少なくとも沖縄人としてのアイデンティティをとことん追求するなら、そこに行き
着かざるを得ない。
ホープレスの中にこそホープを見出すとでもいうような、きわめて逆説的かつアイ
ロニカルであり、なによりファナティックで破滅的とさえ言えるが、ファナティッ
クでなにがわるいとさえも思ってしまう、そんなかんじだろうか。