禁教後、江戸時代初期の日本に忍び込んだ司祭:ロドリゴの物語である。史実を元にしたフィクションである。
カトリックの聖職者としての頑なな信仰を持つ司祭が、禁教国の現実に直面し、
信仰と現実のギャップを埋めるべく、必死に信仰の合理化を図る様が執拗に描写されている。
唯一のテキストを経典とし、頑なで固定的な信仰のスタイルを持つ宗教の不毛さが伝わってきた。
聖書にある神の言葉は大昔に書かれたままであり、現実に合わせて変化することは決してない。
ロドリゴが限られた聖書の言葉を恣意的に現実に適合させるのに心を砕く様は痛々しかった。
幾ら敬虔な信心を捧げても、応えぬ神。
そもそもなんで日本にカトリックを広める必要があったのか。
ロドリゴの師:フェレイラは「我々の神は日本人には理解されない」と言い、
沢山の切支丹を転ばせてきた井上筑後守は「残った切支丹は得体のしれないものとなるだろう」と言うが、
どちらも事実と思われる。特に井上の台詞はそのままに、今につながる隠れキリシタンの存在を指している。
最終的にロドリゴが辿り着いた結論はそれなりに良かった。
しかし、自分から禁教国に忍び込んで苦しんでおきながら、
平和なところで生きている他のカトリックの聖職者を悪しざまに思うのは如何なものかと思った。
これは作者がもつカトリックへの拘りとそれに相反する異端的な思いとの不調和を克服できなかったことの表れに思えた。
そのような不調和があることを、作者は最期まで自覚しなかったのではないかとも感じた。
なんで遠藤周作はカトリックの枠組みに拘りつつ信仰の中身を捻じ曲げようとするのだろう。
キリスト教会よりもキリスト、というのは良いが、それを以て他の聖職者を悪しざまに言うのは違う気がした。