過去、これほどまでに読み手に試練を要求する小説は存在しなかったと思う。
作者は本作がドストエフスキーの影響下にあることを公言している。
しかし、本作はドストエフスキーですら想像できなかった現実、すなわち、唯一の希望であるはずのアリョーシャが最初に斃れて(斃されて)しまう「状況」を起点としている。(もちろん、比喩的な意味です)
市井のオッサンに過ぎない当方としては、正直言ってそのような状況には向き合いたくない。向き合いたくないが、読まなければ「こちらの負け」である。
で、嵐のようなハードパンチを耐えつつ、最終ラウンドまで戦い抜いて何が見えたか?
それは、いかなる叡智・理性をもってしても、膝を折らざるを得ないほど歪んでしまった社会構造である。
そのことを持ち駒を使い切って提示した作者の努力は賞賛に値する。恐らく、今の文壇に同一テーマを描ききれる才能は他にいない。
しかし、私は本作をどうしても肯定することができない。なぜなら、衝撃的な結末に持ち込むために、他者への想像力、あるいは素直な人道主義というものが踏み台にされている気がするからだ。そこまでのニヒリズムを貫き通す必要があったのか?
小説とは「希望」や「救い」、「活路」を示すための装置だと思う。別にハッピーエンドなんて望まない。微かな光さえ示されていれば、読み手には伝わる。本作にはそれがない。
人に本作を勧めるべきかどうかも分からないし、読んだ人と本作について語り合うのも気が引ける。そもそも、本書を読むのに費やした時間が自分にとって有意義なものだったのかどうかも分からない。そういう本である。