世の中、読み易い分かり易いが流行っている。
有名な独文学者である池内紀も「簡潔」で「分かり易い」訳を心がけたと解説で書いている。ところが買ってみて驚いた。
原文自体簡潔で分かり易い前半2章は全訳。しかし問題の後半が恐ろしく切り詰められた抄訳になっている。後半こそ訳者の技量が問われるところのはずなのに。
抄訳した理由は前半に対する「補い」だからということと、カントの生きた「時代と密着」していて「古びている」からということらしい。警句的な性格を出すという目的もあったようだ。
カントは「永遠平和」が理想主義者のタワ言ではなく、「根拠のある希望」だと信じた。その根拠を述べているのがこの後半だというのに! だからカント自身、この後半こそ「本質的」な部分だと書いた。
根拠を述べようというのだから、自然、簡単とは言い難い議論にもなるだろう。
それを警句的性格を出すためなどの理由で薄めてしまうとどうなるだろうか?
カントが恐れたように、潜む問題の凶暴性を無視した楽観主義者のタワ言がまかり通ってしまう。
後半を端折ったことで訳者はカントの批判哲学的な希望を台無しにしてしまった。
それが現れているのは訳者の解説。
訳者はカントの生きた東ヨーロッパが多民族共存の楽園だったと本気で思っているらしい。 同じようなイメージで語られていたユーゴスラビアが民族憎悪の中で崩壊したことを思い出せばいい。それよりも何よりも、ドイツがナチズムへと走りユダヤ人だけでなく東方の民族を隷属させようとしたとき、古い軽蔑の心が梃子になったことを思いおこすべきだろう。
カントは見かけの平和の裏に凶暴な「人間の自然」が潜んでいることを忘れていない。見せかけの平和よりも民族間の確執が民族を育てる、と危険なことも書いている。人間の自然は争い=戦争でも、にもかかわらず永遠平和は根拠ある希望なのだと、とても微妙な論を展開しているのがこの後半だ。
後半が端折られたことで、カントが望んだはずの「根拠ある希望」としての永遠平和というテーゼを十分理解することも、ましてやカントに?マークをつけることもできなくなってしまった。