この本を読んで先ず思ったのは、あぁ、もっと若い頃にこういう本を読んでおきたかったということだった。30代の頃、両親を亡くした。父が亡くなったときは、自分の悲しみをこらえるのが精一杯で残された母の悲しみをサポートするなど思いも寄らなかった。混乱して、依存度を増す母に苛立ちを覚えたものだった。しばらくたって母が泊まりに来て子どもたちと眠った翌日、父が枕元に現れたと言い、小学校の低学年だった娘が自分も確かにおじいちゃんを見たと言ったときに、それは母の幻覚であり、幼い娘がそれに引きずられたのだと相手にしなかった。あり得べきことなのに。母が亡くなったときはあまりの煩雑さに一人歯を食いしばっていた。もっと悲しんでもよかったのだ。悲嘆を悲嘆として味わい尽くせばよかったのだと、この本を読んでいて思った。そしてそれを母や子どもたちと共有できていたら、どんなに違った展開になっていただろう。今、私の近くに90才を過ぎて骨折、認知が進んだ実母がいる。幾たびも癌の再発を繰り返し緩和ケアの話を聞くことになった友人がいる。先のことを思えば時に涙も出てくるが、踏みとどまって向き合い、どんな感情も味わい尽くそうと思っている。今この本が手元にあるのが救いである。それにしても、デーヴィッド・ケスラーと同じように私もキューブラ・ロスの不在が寂しい。