2008年3月から2011年3月にかけて、共同通信から全国の新聞社に不定期に配信されたエッセイをまとめたもの。全部で70数篇。
喫茶店で耳にした学生の会話、友人からの国際電話、死刑についての報道・・・。
著者の半径何メートルかの事象から「世界の涙の総量」(『ゴドーを待ちながら』)や絞首刑や伊藤律まで、
地を這うような著者の視線が日常に潜む時代の''孔”を見つめる。辺見庸の視線は鳥瞰ではなく虫瞰だと言った人があった。
著者の言葉の底に流れる「怒り」=「ある空気」を醸成するジャーナリズム、なされるがままの世間、そして自分自身への怒り
ーーは、これまでになく静かで、そして強い。全身を締め付けてくる真綿のようである。
いわゆるマスメディアの言葉とは対比的に、わかりやすい言葉では語られず、また安易な結論を与えてはくれない。
そのせいで、一篇一篇はどこか詩、あるいは丁寧に編まれた「呪詛」のように見える。
誰にとっても「消化し難い一冊」。本書自体が思考せよ、という強いメッセージになっているようにも見えた。
その日暮らしの生活を送る元教え子とのやりとりを描いた「プレカリアートの憂鬱」は、奇しくも、秋葉原事件を報じた紙面上に掲載された。
「いま、何に怒ればいいのですか」という青年の言葉が心に突き刺さる。
以下2011年3月、震災後に掲載された最後の一篇の言葉を、一部引用させていただく。
「・・・いまはただ茫然と廃墟に立ち尽くすのみである。だが、やがて涙もかれよう。
あんなにもたくさんの死をのんだ海はうそのように凪ぎ、いっそう青み、ゆったりと静まるであろう。
そうしたら、わたしはもういちどあるきだし、とつおいつかんがえなくてはならない。
いったいわたしたちになにがおきたのか。
この凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。
わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。
あぶない集団的エモーションのもりあがり、たとえば全体主義。
個をおしのけ例外をみとめない狭隘な団結・・・(中略)
大地と海は、ときがくれば、平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。
わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。」
/「非情無比にして荘厳なもの」