「下克上」という言葉があるように、家臣が主君を裏切ることも珍しくなかった戦国時代。
自らの能力を高く買ってくれる主君を求めて国から国へと渡り歩くことは、当時の武士にとってごく普通の習俗でした。
ですがそのような実力主義の考えは、泰平の世においては危険な価値観となってしまいます。
武士の活躍の場である合戦は遥か昔の出来事となり、体制の安定と維持が唯一の目的となる治世の時代。
250年の長きにわたる、徳川幕府の時代の到来です。
それは同時に、武士が自らの「死に場所」を失った時代でした。
官僚的な事務能力が重宝され、戦国の気風を伝える荒々しい価値観が窒息していく世界。
しかしそんな世でも、自らの存在を誇示できる瞬間がかろうじて訪れます。
主君の死に際して、自らもそれに追従し腹を切ること。つまり「殉死」です。
本来、「殉死」は主君と特別な心理的紐帯のあった者、例えば主君と衆道(男色)の関係にあった小姓などが行ったものでした。
もともとは、一種の恋愛感情に基づく行為だったのです。
ですが近世になると、そこに「亡き主君の恩に応えて追腹を切ることで、武士としての名誉を誇る」という、「行為としての死」という側面が加わってきます。
武士として活躍する場所、「死に場所」がない世界です。
戦国の世からすれば取るに足らないようなこのちっぽけな名誉のために、近世初期には殉死が全国的な流行となりました。
特に、ヒエラルキーの最下層に位置する下級武士がこぞって主君の後を追って死んだのです。
しかし、殉死という行為は「主君を思う忠義の行為」でありながらも、同時に「武士の自己顕示的な精神性の発露」でもあるのです。
云ってみればそれは、常に死と隣り合わせで生きる「戦士」が本来的に備えている、「アウトロー」つまり「かぶきもの」としての価値観を色濃く反映した行為なのです。
いつ死ぬか分からないからこそ、簡単に死んでしまうからこそ、死にざまにこだわる。
生き恥をさらさぬよう、不名誉な評判を遺さぬよう、見事に死にきる。
それゆえ「殉死」は「主君」や「お家」のためというよりはむしろ、あくまでも自分個人の名声を鑑みた武士の美学でもあったのです。
それゆえ、時の権力は「殉死」を問題視し、ついには禁止するに至りました。それが「主君の死という契機を利用して自己の武勇を誇る」という危険思想にさえなりうることを、炯眼な権力者は見抜いたのです。
明治以降の軍国主義イデオロギーが顕彰する、「忠孝」を第一とする「武士道」とはひと味もふた味も違う「むき出しの武士道」がここにあります。
興味ある方はぜひ一読を。