この大著を読んだ後、死について何を言おう。死という思考の対象となりえないもののうちで思考の対象となりうるものすべてを思考すること、著者がしたのは、まさにそれだ。
著者は「死」が何であるかを語らず、何でないかを語るところから始める。そして、同じことだが、自分は「死」が何であるかを知らないと率直に告白することをためらわない。
けれども、著者は「死のことなんかわかるわけないさ」と嘯く懐疑論者でもなければ、「死はこれこれしかじかのものである」と「死」を実体めかして語るペテン師でもない。ジャンケレヴィッチ先生は、まさに生と死のあわいで、身をよじるようにして思考すべきものを徹底的に思考し、言うべきことはもう何もないという地点まで読者の思考を導く。
そして、あることを述べた後、すぐに言い直し、表現を変え、さっき自分の発した言葉に自分でためらいを覚え、言い淀み、また前言撤回することを厭わない(そうした思考は先生の僚友エマニュエル・レヴィナスの思索を彷彿とさせる)。言ってみれば先生の叙述は、難問に繰り返しアンダーラインを引くようなものなのである。あるいは武道家甲野善紀先生の言葉を借りれば、「矛盾を矛盾なく扱う」思考と言えようか。
しかしながら、本書は、書斎に閉じこもって、「死」は自分だけは襲わないと確信している人の作品ではない。この「私」が死ぬ。そして、死んだらそれっきりという許し難い事実に直面して、怯え、慄き、怒りを覚える一人の人がそこにはいる。そこから、それらの恐怖や怒りを鎮め、慰めると称する慰めを一つひとつ丹念に点検し、まやかしは全て退ける。著者は人生の喜びや悲しみを知る人であるが、同時に徹底的に知的な方でもある。
死が何であり、それにまつわる様々の迷信や慰めを縦横無尽に検討した果てに見出す結論は、驚くなかれ、とても自明で、常識的なものだ。「そんな簡単なことは誰もが知っている」と言いそうで、その実しばしば忘れがちのことだ。それは「生きたという事実性」だ。人は死ぬ。しかし、その人が生きたという事実、これは取り消すことができない。「存在したという事実は、つまり、文字どおり永遠の瞬間だ」。
愛し、そして生きたということ、それこそが実存の神秘の全てだ。それはまやかしの慰めであり、まったく粗末なあてがいだと言う人もいよう。しかし、「この粗末なあてがいこそもっとも貴重な路銀なのだ」、そうジャンケレヴィッチは言う。人が現実に私から存在を奪うことはできても、存在したという事実を無と化すことはできない。そのことを最後に正しく強調している点で、本書は本当の希望と慰めのありかがどこにあるかを示唆している。
最後に訳者について触れよう。訳者の仲澤紀雄氏は、若き頃、森有正先生の薦めに背中を押され、また前田陽一先生の紹介状を携えて、渡仏し、ジャンケレヴィッチに論文の指導を仰いだ方である。この『死』の翻訳を思い立った時、出版社への仲介の労を取られたのは、森先生である。また、森先生もジャンケレヴィッチへの深い尊敬の念を抱いていたことが『砂漠に向かって』などの手記から推し量れる。本書が日本で出版されるまでに、翻訳者と原著者の間に介在した様々な人の出会いと働きも忘れるべきではないだろう。そのような出会いがあったという事実に心暖まる思いを抱かせられる。それらは言ってみれば、大きな贈与である。私は、それにどう応えようか。そんな思いにさせられた読書であった。