石牟礼道子といえば、水俣病をテーマとした「苦海浄土」の作者ということでよく知られている。唯一、池澤夏樹の個人編集世界文学全集に収録される日本の作品でもある。
その石牟礼に対談を申し込んだ伊藤比呂美は、これまでは性をテーマとして扱ってきた詩人である。「日本霊異記」を語り直した「日本ノ霊異ナ話」の生命力あふれるエロスの朗読を聴いたことがあるけれど、ほんとうに帰化植物のように自身カリフォルニアに移住してしまった、その生命力が作品となっている。
けれども伊藤には熊本在住の老親がいる。要介護認定されている両親の介護のために、熊本とカリフォルニアを往復している。そうした中で、死というのがどういうものなのか、意識するようになった。そして、同じ熊本在住の「苦海浄土」の作者と会うことにしたというわけである。
伊藤が石牟礼から引き出す話は、死について手触り感のあるものだ。子供の頃の身近な死、水俣病による死者の解剖に立ち会う場面、そして自身がパーキンソン病によって不自由になってきていること。さらに話題は仏に及ぶ。死は、いずれはやってくるものだし、死んだら未練もあるだろうけれど、とにかくそれは、そこにあるものとしてある。石牟礼は尊厳死をめぐって、自分でトイレに行けなくなる状態であれば、もういいと言う。自分が自分であるということが生きるということなのだとすれば、そこで人生がいつ終わってもいい、ということだろうか。そうした、生の果ての死に対し、どうしようもない生命力を詩にしてきた伊藤が呼応する。
最後は、石牟礼の創作による「お経」を読むところで、対談が終わる。
多分、死に向かって楽しく生きる、というのはアリだと思う。悲惨なものなどではなく、仏になるときはなる、という。それがリアルな死なのかもしれない。