本書の至る所で、無我と無常と涅槃が、雲や川の喩えによって巧みに説明されている。そうした日常的な瞑想習慣を一つでも実践することは、チューダ・パンタカの掃除瞑想の実践と同じである。釈尊の説く一偈も覚えられずに、自分の愚かさを嘆いたチューダ・パンタカは、釈尊から「塵(ちり)を払い、垢(あか)を除かん」と唱えて掃除をするようにと箒を与えられた。やがて彼は「除とはこれ慧を謂い、垢とはこれ結(煩悩)を謂う」という境地を釈尊に報告し、阿羅漢になったことを認められた。
訳者が実践編と指摘した「第8章 怖れ、受容、そして許し」は、そうした日常的な瞑想を拡大する方法を述べている。「二つの次元に触れる」という節で、歴史的次元(時間次元の無常と空間次元の無我)と究極の次元(涅槃)が示される。しかし、この部分は、『生けるブッダ、生けるキリスト』の「第9章 究極の実在に触れる」のp.157〜159に詳しい説明がある。その部分を引用する。
<究極の次元とは、静かに覚めた平和と喜びの状態のことで、あなたが「死」んでから行きつく境地ではないのです。気づきをもって呼吸し、歩き、そして、お茶を飲むその時に、あなたは究極の実在に触れるのです。瞑想や祈りの暮らしは、一瞬一瞬を深く生きることなのです。瞑想や祈りによって、波は水だということを、そして、歴史的時間の次元と究極の次元は一つのものだと知るのです。私たちは歴史的時空の中で、安らぎを求め、霊的修行を始め、心はある程度落ちつきます。しかし、究極の実在に触れる時に初めて、心は最も深い安らぎを得るのです。>