知られざる英米派の陸軍参謀・辰巳栄一の生涯が、はじめて一冊の本として本書にまとめられた。みずからを「敗軍の将」としてオモテに出ることを潔よしとせず、きわめて大きな役割を戦中戦後に果たしながらも、みずからの意思で歴史のなかへ姿を消していった陸軍情報将校。
同じ英米派で先輩にあたる本間雅春中将がノンフィクション作家の角田房子によって取り上げられ、『いっさい夢にござ候』という名評伝が書かれているのは、フィリピンで戦犯として処刑されたという悲劇的な死を迎えただろう。これに対し、みずからの意思で歴史から姿を消し、最終的に天寿をまっとうした辰巳中将は、伝記が書かれたことはこれまでなかった。
著者の表現を借りれば、「情報力の有無とそれを使いこなす政治指導者の重要性に着目していた」(P.9)辰巳中将は、もっと世に知られてしかるべき情報将校の一人だろう。最後まで読んでみて、強くそう思った。
敗戦後の日本の保守政治のレールを引いたのはワンマン宰相とよばれた吉田茂である。吉田茂には二人の有力な「ロンドン人脈」があった。
一人は、GHQによる日本占領下、主権と独立を回復するために、吉田茂の右腕となって活躍した白洲次郎。そしてもう一人は、吉田茂の軍事顧問として活躍した本書の主人公・辰巳栄一であった。
通産省(現在の経産省)をつくり、電力自由化などの経済政策に大きく関与した白洲次郎が吉田茂のオモテの右腕であったとすれば、敗軍の将としてウラに徹した辰巳栄一は吉田茂の私的な軍事顧問であった。著者の表現を借りれば、白洲次郎は「経済の密使」で辰巳栄一は「影の参謀」の役目を演じきったといえよう。辰巳栄一は日本の再軍備においてきわめて大きな役割を果たすことになる影の功労者である。
なんといっても、本書で読者の関心がいちばん深いのは、副題にもなっている「吉田茂の軍事顧問」としての後半生であろう。この時代の情報は、米国立公文書館の「タツミ・ファイル」によるものだという。米軍による占領下の日本でインテリジェンス活動を行っていた対敵諜報部隊(CIC)が収集した情報である。自衛隊の前身である警察予備隊創設も、辰巳栄一の存在なくしてあり得なかったことがよくわかる。その間に展開された種々の暗闘も。
残念ながら本書は、新聞連載の文章をもとにしたためであろう、単行本においても新聞文体のままであり、けっして読みやすくない。連載中の「産経新聞」の読者にとっては意味があるだろう各種の文言も、単行本の読者にとっては正直なところ冗長であり、大幅に再編集してから出版していただくべきであった。また、知られざる人物の本格的な紹介でありながら、資料としての年譜も整備されていないのは読者にとっては、はなはだ不親切である。
とはいえ、本書は先駆的な仕事としては意味あるものといっていい。本書を踏み台にして、吉田茂のロンドン人脈、そして「情報」という観点によるすぐれた評伝やドラマが、これから書かれることになるのであれば、本書の存在意義があったということになろう。