著者によれば、歴史は自分の立場を正当化する「武器」だそうである。国の歴史(正史)には、本来そういう側面がある。「歴史は文化であり、人間の集団によって文化は違うから、集団ごとに、それぞれ『これが歴史だ』というものができる」が、それは「ちゃんとした歴史」ではない。「いい歴史」を書こうと思ったら、「善とか悪とかいう道徳的な価値判断」「功利的な価値判断」は一切禁物である。しかし、そうした価値判断を排して書かれた「いい歴史」は「どの国家にとってもつごうの悪い」ものにならざるをえない。
そこで思い出すのは、2000年度のノーベル文学賞を受賞した中国人亡命作家、高行健(ガオ シンジアン)が「中国の正史」を批判した言葉である。高は「歴史とは、イデオロギーを通してではなく、じかに対面すべきものである」と言った。本書は、世界文明上の歴史観を、司馬遷の「現実とかけはなれた『正統』の歴史観」(中国文明)とヘロドトスの「変化を語る歴史観」(地中海文明)の2つに分けている。どうやら、高が「イデオロギーに基づく正史」と批判する中国の歴史記述は中国の伝統なのである。それが「いい歴史」かどうかは別にして、それぞれの国が自分の歴史をどう記述しようが、他国がとやかくいう筋合のものではないかもしれない。
しかし、求められるのはやはり「いい歴史」である。だが、「いい歴史」は必ずしも万人を喜ばせるものではない、と本書は言う。胸のつかえの下りる本である。(伊藤延司)
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一般史書が決して書かない、根本的な問題について、正しいかどうかは分かりませんが、筋の通った雄大な理屈と視点を与えてくれます。例えば:
・インド文明には歴史がない
・資本主義はモンゴル帝国が世界に広めた
・フランス語は人工的に作られた言葉
・日本は幕末までずっと鎖国をしていた
・朝貢の本当の意味と中国の覇権主義
・現代中国語は日本語から作られた
ただ「よい歴史」とは何か、についてはさすがに風呂敷を広げすぎて論理が破綻していますが、まあご愛嬌。保守本流歴史家がこの本をどう見ているか、訊いてみたいものです。こんなもの歴史ではない、「ファンタジー」だと切り捨てられるのかな。お勧め。
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