本書には「近代日本にとっての中国」という副題がつい
ていて、彼の国が他を圧する大国となった今、何故中国
なのかと訝りながら読み始めました。しかし、『中国文学
月報』から始まる広範な書誌的考察を読み進めるうちに、
そんな気持は吹き飛びました。著者の誠実な姿勢が伝わ
ってきたからです。武田泰淳と竹内好、ふたりの問いへ
の答えは未だに見出せていないと、著者は言いたげでし
た。
わたし自身は、竹内の「近代とは何か(中国と日本の場
合)」、「国民文学の提唱」、「近代の超克」そして「アジア
主義の展望」はいずれも読み、続けて宮崎滔天『三十三
年の夢』や金九『白凡逸志』などを読んだものです。その
淵源を著者は遡り、『中国文学』1942年1月号の民族解放
への思いと日米開戦の感動という両義性を綴った「大東亜
戦争と吾らの決意」に見出しています。つまり、ふたりの
営為の一貫性、最初からの困難な課題、改めてそれがは
っきりしたというのが、わたしにとって何より意義のあること
でした。
さて、著者のいうようにふたりの死亡で、彼らの問いは中
断したまま終わりました。しかし、竹内の提起した日本の近
代史のアポリア、復古と維新、国粋と文明開化、西洋と東
洋、これらはもう問われずに済むことなのでしょうか。重い問
いだけがわたしのなかに残りました。
<付記> 本書は堅苦しいと感じる向きには、丸川哲司『竹
内好』(河出書房新社 2010)はいかがでしょう。「近代とは
何か(中国と日本の場合)」が京都学派の立場に立ちながら、
その立場を逆転しようとしたという評価は、教えられるところ
がありました。(2010/10)