本書は出ると同時に政治哲学にルネッサンスをもたらした本だが、その原因は一重に社会契約のアイデアを再導入したことにあるので、それについて分析してみたい。
ジョン・ロックの社会契約説。デカルトの方法的懐疑を個人の経験に当てはめ知覚、経験からまっさらな人間による従来の権威伝統から自由な経験論を創出した、タブラ・ラサ。
それを更に社会に当てはめたものが社会契約説である。
社会契約説は個人の選択、判断、エゴイズムに絶対の信頼、基礎を置いている。
同時に全体原理、一度に皆が集まって判断できた、将来の約束の履行を確信できるという前提条件がある。
結論からいうとそんなものはない。そんなことは有り得ない。
裸の自然人たちは、そもそも契約する必要はない。既に慣習に従い仲間内で半ば盲目に半ば楽しいから好きにやっている、行為の集まりがあって、それを機能させるために、
半ば社会化された小さな人間、小さな集団同士の小さな約束の連なりから全ては始まるのであって、社会契約は存在しない。
部族達がうまくやるために寄り集まって同盟ができる、それがハンムラビ法典になるなどはあってもそれは社会人が小さな約束を持ち寄って、慣習化していく長い過程であって、自然人による社会契約ではない。
タブラ・ラサの想定する自然人が最初に全員集まって契約するなど有り得ないのだ。
これは笑い事じゃなくて、フランス革命の暴走や共産主義革命の収容所など、あるいは資本主義や民主主義に連なる慣習も制度も何もないところに、
PKOで選挙を押し付けてこれで問題解決すると勘違いして泥沼の内戦引き起こしたりする、現在進行形の悲劇にもつながる問題なのだ。
バークやヒュームは慣習やそれに支えられた生活を無視した一からの設計主義がいかに危ういか論じたが、社会契約説は現実に大きな災厄をもたらした。
しかし、バークにしろヒュームにしろ、慣習だから正当化するのは、結局、何も答えてないに等しい。
頭の悪いサンデルの共通善なども同じに意味のない思想だ。論点先取である。ださい。
社会契約が危ないから、一からの設計主義よりは危なくないからと言っても、慣習だからと暴政が不当支配が不正が正当化されるなら意味ないではないか。
では基準は何なのか?
人は何故、約束をするのか?それは約束を破られるためである。
当たり前だが。
約束したのだから、守らないものは罰を与えるのテロリズムでは、結局、収容所へ、暴政に転化する。
約束を守らせるように互いに努力しあうことは重要だ。しかし、贈与は見返りを求めたら贈与じゃないように。約束は必ず見返りを求め暴力的に履行を求めたらそれは約束ではない。ルソーがテロルの道を開いた唯一の過ちだ。
必ずの履行を求めたら約束は約束ではない。理性のテロリズムとはそういうことだ。
約束は守られない。約束は破られる。それでも約束し、将来の可能性にかけること。
社会契約の想定する個人の全能の判断ではない、常に予測できない他者との不確実性の中から、
個を越えた立場から個にとっては結果として望ましいか否かわからないが、それでも全体にとって未来にとっては良いのだとの決断。
約束は破られるからとの引き受けがなければ成り立たない。
また、これはロールズを批判したアマルティア・センの問題にしたことでもある。結果のみの平等を問題にした、ロールズの社会契約論に対し、
過程をそれぞれの人間の自己実現としてのやりがいの平等や障害者への社会参加の問題でもある。
個人的で全能で結果だけを問題にしてしまう、結果を見通した全体性の社会契約論への反対。
不十分で見通しが立たないからこそ努力する。
そういう人間の根源的あり方への問い。
社会契約説は論理的に全てを見通せる個人の存在を前提としているのだ。
そこには、ルソーさえ避けられなかった、設計主義の誤り、全体主義的危うさがある。時間の果てまで、見通して、
少なくとも大きな部分では変更しないでよしとの目算が立たなければそもそも社会契約などは怖くてできない。
しかし、それは必ず、現在は社会参加できなくて、マキシミン原理にさえ引っかからない他者の参加可能性を排除する。
センの批判したように。
ロールズの社会契約の議論をあくまでも仮説だとか、事実の問題ではなく、規範的議論だと弁護する向きはある。
でも、現実的に有り得ない、有り得なかったものを仮説として議論して何が有効なのか?
規範的議論としても、ここで見られるように根源的に欠陥を抱えているのではないのか?
無知のヴェールとはタブラ・ラサを言い換えただけではないのか?
結局、社会契約説の危うさを抱え誤魔化しているだけではないのか?
本書はそういうことを考えるための叩き台として利用していただければ幸いだ。
正義について考えるために優れた重要な著作である。現在の古典である。