人は,生まれ,生き,死んで行く。無常の只中で生きるからこそ,生命は瑞々しい。
道元著『正法眼蔵:生死』は,釈尊以来の課題,死,涅槃に着目し,翻って,仏教的な生命の在り方を説き示す。道元の原文は,ストレートで分かり易い,詩的な情感漂う,900字足らずの散文である。
内山興正師著の本書は,『生死』を,若い女性向きに分かり易く解説した物で,気難しい古文読解の手引きではなく,内山師自身の生死への処し方を語り掛けた気軽なエッセイと云える。
抄)「自分が,自分独りの力で,自分一人の意志で,生きている」,是れは妄想である。人が生きて行くには,呼吸や食事等,周囲の自然界との遣り取りが不可欠であり,自然界ぐるみで生きているのである。また,舌先三寸・手・足を除いて,呼吸,消化,心臓の鼓動等,自分の身体さえも,実際には,周囲の自然界と同様に,自分の意の儘になりはしない。
人の生命とは,「因縁に従って自然界から物質が集まって身体の芽が生じ,自然界と遣り取りしながら身体が更新・成長し,因縁に従って死んで,身体を最終的に構成していた物質が散じて自然界に帰る」と云うのが実像である。だから,自分の生死や日常の生活も,自然界全体=「天地一杯」,即ち宇宙的規模での生命活動の一端として,自分の意志を超えて,起きている衆縁現前の事件なのである。自分のアタマに思いが浮かぶ事さえも,自分が独り勝手に思い浮かべているのではなく,宇宙的活動の一端として衆縁現前の中で起きているのである。
とは言え,アタマは暴走もする。人が出会う苦・迷いとは,眼前の「天地一杯」の現況を受け入れず,望ましい何かを付け足したい,疎ましい何かを差し引きたいと,アタマが暴走する時に生じる。死や輪廻・転生を妄想して厭う事,不死や涅槃を妄想して願う事も,アタマの暴走である。
仏教に適った生命の在り方とは,生命の根源・本体であり,只今・眼前の絶対的真実(=一時の法位)たる「天地一杯」の現況を,厭う事なく,願う事なく,無条件に受け入れ,その絶対的真実を堅固な足場にして生死と云う崖っ縁に立ち尽くし,生来たらば生,滅来たらば滅を,妄想等の束縛を離れ,自在に行じ行く事なのである。<<
「天地一杯」な生き方とは,1)自身の生命が「天地一杯」(=渾宇宙)と云う不可分な統一体の生命活動(=「仏の御命」)の一環として生じ,活動し,滅し行くものである事を「信」じ,2) 「天地一杯」から絶えず流れ来たりて,それに身を曝している現況を,その澄・濁に是非・揀択・趣向・造作して人為的に「汚染」する様な事なく,一口に呑却する,生き方である。これを,「一口に吸尽す,西江の水」,「平常心」,「天真に任せる」,「喫茶・喫飯」,「あ屎・送尿・著衣・喫飯」とも云う。禅が,小悟・大悟等の個・個人のアハッ体験に留まらず,宗教で在り得るのは,人がそこに「信」を置く事によるのである。