日本文学史の中で、演劇は、詩歌や物語、小説に比べ低く評価され過ぎているのではないか。英文学でシェイクスピアを教えないことは有り得ないし、仏文学からラシーヌやモリエールを外すことはないし、ドイツ文学からシラーやゲーテの戯曲を除いたら、おかしなことになるだろう。ロシア文学におけるチェーホフも同様だし、そもそも西洋文化の源流である古代ギリシャ文学は、財産の多くが戯曲だと思われる。演劇、即ち戯曲が詩歌、小説と並ぶ文学の柱になっている。ところが、日本文学史で、江戸歌舞伎はどう扱われているのだろう。世阿弥は。能は。或いは、浄瑠璃は。井上ひさしは。
本書は、渡辺保の労作「江戸演劇史」と並んで、江戸時代の演劇(歌舞伎、浄瑠璃)を日本文化のみならず、文学史の柱のひとつへと再評価させる契機となるような力作と思う(恐らくは、近年の若冲をはじめとする江戸絵画の再評価が、狩野派を含む江戸絵画全般の日本絵画史における再評価を招きつつあるように)。今まで江戸の歌舞伎は、学校で教えられることはまずなく、文学として、まともな扱いを受けて来なかったと思うし、実際のところ、歌舞伎好きにさえ、戯作の著者や作品について、あまり知識すらない。漫画と同じく、女子供が愛する庶民の娯楽程度の評価しか受けてこなかったのではないか。能の詞章にしてさえも、まともな文学として扱われて来た例はないように思う。少なくとも、高尚とされる能の詞章でさえ、教科書には載ることはない。
本書は、江戸の演劇がいかに日本文化に大きな影響を与えてきたか、そしてその価値が不当に貶められていることをさりげなく訴えている。だからこと、題名が「歌舞伎の中の日本」という、少々大げさな題なんだろう。内容は、渡辺保が作家、俳優を軸に演劇史を書いているのに対し、時代によって、歌舞伎の内容(つまりは戯曲)がどのように変化したか、趣味の変遷、その背後にある経済的繁栄、バブル、不況、停滞感、政治的抑圧などの社会的要因についても触れながら、とても分かりやすく説明しており、内容の濃さには驚かされる。
本書を読めば(そして渡辺先生の本も併せて読めば)、江戸の演劇に対しての評価、見方、さらには江戸文化に対する見方も大きく変化することは間違いないと思われる。
薄い本だが、内容はとても濃い。カタカナ用語を多用し、現代風に見せ、一般的な読者に迎合し過ぎているように思われるのが少々難点か。