ラクス、キラ、アスラン、カガリ、シン、ルナマリア、レイ、デュランダル議長など主要キャラの大半がコーディネイターというこの異常さ。
戦うナチュラルは一部のAA、カガリの部下、ムウ、エクステンデットぐらいのもので、その扱われ方もひどい。
コーディネイターの中でもSEEDに覚醒できる者とできない者とで明らかな差別が図られている。
ディアッカ、イザークが目立たないのも、デュランダル議長、レイが悪者にされたのもSEEDを持たないからか?と疑わざるをえない。
SEED[に覚醒できるのは脚本家のお気に入りだけというのも考えものだ。
ナチュラルの悲惨さはコーディネイターの比ではなく、完全にやられ役である。
前作の「SEED」(中盤ぐらいまで)はナチュラルの中で苦しむ主人公を描くことで見所はあった。
しかしこの作品ではナチュラルの扱いがあまりにひどいためその存在意義を問われかねない。
蚊帳の外に置かれたナチュラルの存在は一体何なのだろうか?単にコーディネイターの優秀さを際立たせるためのだけの存在か?
このアニメが見せたものは遺伝子組み換え大豆のように、より強い種のほうが価値が高く、弱い種は駆逐すべしということだったのかもしれない。
しかし遺伝子組み換えとは、時には弊害をもたらすものだ(例えば遺伝子組み換え大豆を食べたマウスは脳が縮小した)。
前作でラクスがコーディネイターは種の限界が近づいているという発言をしていたが、その問題は一体どこへいった。
その弊害を描かずして、ナチュラルとコーディネイターというセンシティブな問題を扱っても意味があるまい。
コーディネイター中心主義の監督、脚本家が関わらずに製作された「STAR GAYZER」はナチュラルの視点から物語が進行している。
SEEDの続編として扱うなら、こちらの作品をSEED DESTINYの代わりに展開したほうがまだ成功していたかもしれない。