松本駅前に銅像が建つ播隆上人。
本作は、その笠ヶ岳再興、槍ヶ岳開山の事跡を題材として取り上げた小説です。
播隆が山に賭けた想いの源泉を、著者である新田氏は、
若き日に自らの手で殺害してしまった妻への追懐であると設定しています。
現在山上に現れる円状の光輝と言えば、
多くの人が「ブロッケン現象」と説明することができますが、
かつて日本人はそれを仏の御来迎と捉えていた時代がありました。
作中の播隆もまた、笠ヶ岳の絶頂でそれを眼にします。
彼はそこに仏ではなく、かつての妻の姿を見出します。
「登山とは一心不乱になること。」
作中で播隆が口にする言葉です。
一心不乱に登り、雑念が消え去った研ぎ澄まされた瞬間に、人は何を見るか、感じられるか。
実際山に登った経験のある人の多くは、こんな心境に到達した記憶があるのではないでしょうか。
その眼で見たもの。
それが幻覚であるか、現実であるか、奇跡か、あるいはただの科学現象なのか。
そんなことはどうでもよく、ただそのココロに残ったもの、それが全て。
そこに救いがあるかも知れず、ないかも知れない。
作中で播隆が見たもの、感じたものもそのようなものではなかったでしょうか。
新田氏は山を舞台とした作品を数多く手がけつつ、
同時に組織のしがらみとの闘う人物を描く傾向があります。
本作でもその筆は健在で、俗世のしがらみとの狭間に立つ播隆の姿を映し出します。
桎梏を超えて、ただ一心不乱の無碍の境地の中に、救いはあるのか。
そしてその一心不乱の境地を得る場所、それが播隆にとっての山だったのか。
無論、本作の播隆像の多くは創作に違いありませんが、
彼が山に見たものは、新田氏の解釈の底にも流れているかと思います。