著者の言いたいことは、本文p225からp229とepilogueにコンパクトにまとめられている。こちらを先に読んでから本文を読み始めたほうが、すっきり理解できると思う。
巻頭、著者は極東を極西と位置づけなおす地政学的認識の反転を行う。とりあえずは日本を亜細亜共同体的な幻想の中で捉える欺瞞を断ち切り、アメリカを中心とするグローバリゼーションの圏域に位置づけていると考えてよい。ただし「西」の意味内容は本文中で濫用気味に拡張されるので、最終的には世界のすべての地域をアメリカ文化圏の一地方と捉える認識と受け取るべきだろう。グローバリゼーションってそういう意味だし。ま、こういう考え方そのものは特に目新しいものではない。こういう認識の下で日本文学を読みましょうよ、という呼びかけだ。
この本の批評の道具立てでより本質的なのは、視線と恐怖という対概念だろう。視線とは権力の視線であり、恐怖とはなすすべなく権力によって眼差される恐怖だ。たとえば爆撃機から地上を見下ろす視線と、燃え盛る地上を逃げ惑う恐怖。GPS衛星から地上のすべてを誤差数センチ以下で捕捉する視線や、街頭の監視カメラの視線と、「いま・ここ」の主体性を剥奪される私たちの存在論的恐怖。
著者が現代日本の文学作品に探るのは、こうした権力関係に対する抵抗のあり方だ。比喩的に言えば、眼差し返すこと。ただし上空から見下ろし返すことで権力関係を再生産するのではなく、見下ろす視線と見上げる視線、そして水平的な視線の交錯の様態、つまり権力関係そのものを見返すこと。「極西」といういかがわしい用語は、サイード的オリエンタリズムの視線の反転という意味で、この眼差し返しを暗示する言葉でもあるのだろう。
こうした立場から、たとえばかつて吉本隆明が「ハイ・イメージ論」で肯定的に提示したような「世界視線」は棄却される。著者はあくまでも言葉を信頼する。実際、恐怖とは名指しえぬものへの恐怖に他ならないのだから、眼差し返すためには名指さなくてはならないのだ。
著者は、村上春樹が恐怖の問題に固執することを重視する。しかし村上はこの問題を「60年代」という特殊性に還元した点で失敗した、というのが著者の主張だ。本書が扱うのは、この村上がしくじった地点で、さらに歩みを進めた90年代以降の作家たちである。その各論が読みたい方は、どうぞ。
最後に1点だけ。本書でヴェンダースが論じられているが、視線の宙吊りということで言えば「ことの次第」にも触れて欲しかった。あのラストシーン、射殺された撮影者の手から路上に投げ出され、それでもまわり続けるキャメラ。主のない視線が撮り続ける、横向きの街角の風景。あれが私にとってもっとも印象深いヴェンダースです。