通常は黒潮で遭難死、或いは漂流先から帰国出来ても死罪が当然だった時代に、万次郎の人生は正に奇跡と言える。鰹漁船の漂流、絶海の孤島生活、米国捕鯨船による救出、米国で教育、ゴールドラッシュ、帰国、幕末の通弁主務、子供に囲まれた幸せな晩年だ。本書下巻はCAの金鉱で旅費を工面、10年振り24歳の万次郎は琉球那覇に帰ってきた。帰国数か月も琉球弁、侍言葉、漢字平仮名の習字を怠らなかった。那覇奉行の島津久包、鹿児島に護送され島津斉彬、長崎で長崎奉行に呼ばれ、踏み絵もあった。土佐に移され、吉田東洋、次いで土佐藩主山内容堂に問われる。そして遂に天保12年(1841年)に11年10カ月振りに母親志おと感激の再会を果たす。更に江戸の土佐藩上屋敷に、そして幕府老中首座阿部正弘に召し出される。安政5年(1858)に咸臨丸教授方通弁主務を命ぜられ、翌年には英会話集を発刊する。万延元年(1860)陽暦2月9日に咸臨丸は浦賀出港、3月17日にSFに到着した。咸臨丸には軍艦奉行木村摂津守、その従者に福沢諭吉先生、艦長は勝海舟、通訳主務が万次郎。このDelegationでは勝海舟の船酔い、福沢先生の驚きと失敗の見聞エピソードが興味深い。1862年に妻の鉄24歳を病気で失い、自宅で英語・数学・航海術を教えていた。万次郎の幼い娘鈴の子守をしていたのが榎本武揚であり大山巖だった。明治3年には渡欧団の通訳で参加、米国ではSFからNYに大陸横断鉄道で渡り、FairHavenでホイットフィールド夫妻に再会した。明治8年には東京医学校の18歳長男東一郎を連れて、高知中ノ浜で母・兄姉妹に会えた。万次郎は明治31年11月12日に数え72歳で永眠。あの時代に太平洋を挟みこの人生、驚きと感動である。万次郎英語を一部紹介。レイロー、ノースメリケ、ユナイッシテイト、キャレホネ。それぞれ答はrailroad, North America, United States, California だ。なかなか聴き取りが難しい。