私にとって4つめのファウスト。相良守峯、高橋義孝、池内紀のうち、後2者は最近読んだ。一方、学生時代に読んだ(はずの)相良訳はほとんど記憶にない。「アウエルバッハの酒場」の場面だけが印象に残り、あとはろくに理解できなかった。その癖この鴎外・森林太郎訳を直後に購入したことを覚えているが、それは若さ故の見栄に他ならない。知識も経験も足りない理系の若造に歯が立つはずもなく、爾来20数年。
2月以降立て続けに読んでいるので、筋は理解している。だから興味はむしろ翻訳そのものに向かう。小島政二郎のあとがきによると、大正二年当時のこの「現代語訳」は、卑俗、少なくとも荘重を欠くとされたそうだ(第二部p.725)。しかし時代は移り、今やこれを解するには相当の日本語力を要すると思う。加えて一切の訳注がない。とりわけ、ギリシア神話の知識なくして第二部が理解できるはずもなく、現代の初読者にこの翻訳は過酷に過ぎると思う。
また、訳語の一部にはすでに黴が生え、あまりの古色にしばしば強い違和感を覚える(一例を挙げるなら、ドイツ文学の翻訳に「襦袢」はないだろう)。そのため例えば、ヘレネの印象は恰も浮世絵中の美人である。固有名詞のカタカナ移行も現代の通例と異なるため、原綴り(幸い併記されている)を見てようやく納得することも少なくない。さらに言うなら、私が読んだのは昭和3年の初版以来改版されていない第23刷である。自身の責であるのだが、旧字体のいくつかが読めず、文字のかすれも多々あって相当難儀した。
今の読者にとっては、卑俗どころではなく、文豪による格調高い雅文訳と言ってよいだろう。しかもこれが初の和文全訳であったのだから、後続の重圧如何ばかりであったか。しかしこの訳、もはや現役としての役割を終えているように思う。何番目かに読む翻訳として、大正初期の雰囲気や鴎外の文章そのものを楽しむ作品と位置づけた方がよさそうだ。