「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。強烈なパラドックスを含むこの成句で有名な『歎異抄』。その一言一句から発せられる「毒」と「薬」は、時代や階層を超え、人々の魂を揺り動かしてきた。親鸞の純粋なる信仰を、直弟子唯円が大胆率直に記述した『歎異抄』の魅力とは何か。
わが国でもっとも優れた宗教書であると絶賛する著者が、その真髄をあまさず語る。法然と親鸞、親鸞と唯円という師弟関係を通して浮かび上がる独自の世界。道徳の延長ではない宗教の本質をえぐり出す。
また、『歎異抄』の聞書作者である唯円その人の出自をめぐり、梅原流の歴史観を披瀝する。これまで唯円は東国の出身であるとされていたが、数々の資料を通して、西国の出身ではないかと。そして親鸞と唯円の深い関係も、親鸞の晩年に京都で築かれたのではないかと、独自の推論を展開する。『歎異抄』成立の秘密に迫った興味深い洞察である。現代語訳と詳しい年表付きの決定版である。
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5つ星のうち 5.0
親鸞の思想をわかりやすく紹介する名著,
By 平成の愚禿 (神奈川県横浜市) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 梅原猛の『歎異抄』入門 (PHP新書) (新書)
仏教知識に乏しい私でも、一弟子からみた親鸞の強烈な人間・自己分析とゆるぎない信仰心をわかりやすく説明してくれる名著。氏のあふれるような深い学識から生まれた啓蒙書として非常にすぐれた作品だと思う。
40 人中、32人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
親鸞の教え如何に,
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レビュー対象商品: 梅原猛の『歎異抄』入門 (PHP新書) (新書)
浄土真宗の教祖・親鸞の穏やかであるが強烈な教えを梅原猛さんが解説しています。「南無阿弥陀仏」と念仏し、ひたすら阿弥陀様におすがりすれば極楽浄土にいける。その教えの深さに感動しました。 梅原猛さんの解説も素晴らしい。 完全現代語訳も載っており「歎異抄」の本としてはこれが一番良いと思います。
3 人中、3人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 4.0
歎異抄を読み、生きることへの勇気をしばしば取り戻した著者が、歎異抄の魅力を語る,
By Saburo Ochiaigawa "水村" (東京都) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 梅原猛の『歎異抄』入門 (PHP新書) (新書)
著者は冒頭、次のように語る。「人生に行き詰まり、自己に耐えられなくなったときに私は、何度か『歎異抄』を繰り返し読んだ。そして読むたびに私は不思議と勇気づけられ、いつしか心の傷が癒された気になるのだった。(中略)私は、今なお正確な意味における専修念仏(せんじゅねんぶつ)の信者ではない。にもかかわらず、私は依然として『歎異抄』の熱烈な愛読者であり、この書物を、数ある日本の宗教的文献の中の最も優れたものの一つであると固く信じて疑わない。(中略)何故このように『歎異抄』は人の心を奪うのか。それは、これが見事に論理的な本だからである。ここには信仰のパラドックスが強く働いている。常識を覆すような言葉が繰り返されている。にもかかわらず、その語りははなはだ明晰であり、かつ論理的なのである。日本にこのように明晰に宗教の ロゴスを語る書物が存在するのは、むしろ驚異的ですらあるように私には見える。中世は明晰に人間の運命を見ていた時代なのである」と。この『歎異抄』に魅かれる著者が分析する内容は、哲学者としての認識でもあり、それなりに興味深いものである。 著者は、「『歎異抄』は一面、実に熱烈な信仰告白の本でありながら、実に明晰な人間認識があり、そこに貫徹した論理が働いているのである。ここにこそ、現代人が強く魅かれる理由がある。(中略)もう一つ、この『歎異抄』が、現代人の魂を抉るのは、そこに描かれた親鸞という人間の見事さである。それは、もうすっかり覚悟の決まった老人の姿であった。なんとこの老宗教家は生き生きとしていることであろうか」と分析する。 第5章「弥陀を信じた親鸞の究極の境地」が、当該著書の要約であろう。 「親鸞自身が、念仏をすれば浄土に生れると確信を持って説いたのではないか。それを、念仏しても浄土に生まれるか、地獄に落ちるか、よく知らないというのである。ただ、自分は法然聖人の言葉を信じて念仏をするだけであって、たとえ法然聖人にだまされて念仏して地獄に落ちても後悔はないと、決然として言うのである。信仰の開き直りとでも言うべきか、おそらくは、これはめったに聞けない信仰の言葉であろう。(中略)親鸞が言いたいのは、結局、こういうことであろう。人間の善悪といっても、もともと善と悪とが人間に定まっているわけではない。殺したいとは思っても、殺すことのできないような業縁をもっていれば一人も殺さないし、また殺したいと思わなくても何らかの業縁で百人、千人も殺すことがある。つまり善悪は初めから定まっているのではなくて、何らかの業縁によって悪を行ったり行わなかったりするだけであるという。これは聖者にあるまじき言葉のように思われるけれど、この言葉の発せられた時代は戦乱の時代であったということに注意する必要があるだろう。(中略)親鸞もまた、そういう戦乱の中であらわされた人間の業の深さをつぶさに見たに違いない。善人といい悪人といっても、ほんの少しの違いである。しかるべき業縁があれば、人間はいかなる悪事でもするわけである。それを自分だけが極楽浄土に行けるなどと思っているのはとんでもないということだというのである」と。
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