副題に「四幕の喜劇」とあるように、『桜の園』は紛れもなく喜劇である。どの点に於いて喜劇なのだろうか。桜の園を所有する地主階級の風刺に於いてではない。人物個人の風刺に於いてでもない。この作品が喜劇であるのは、社会やそれを構成する人間の滑稽を風刺しているためではない。人間全体そして人間性を全く肯定している点に於いて喜劇なのである。
確かに、個々の人物は皆滑稽な面を備えてはいる。財産が底をついて尚浪費を止めないラネーフスカヤ、大学生ロパーヒンの無邪気な理想を全く疑わない世間知らずのアーニャ、従僕である自分の立場も弁えず周囲を冷笑してばかりいるヤーシャ、等々。しかしチェーホフは、これらの人物を冷笑すべき、風刺すべき人々としては描かない。桜の園は血の日曜日事件を控えた帝政ロシアの象徴として、個々の人物は各々の階級の象徴として描かれてはいる。だが、何れも何かの罪を負ったものとしてではなく、ただ今ここにある、今ここにいるものとしてだけ描かれる。最後に旧世代の象徴であるフィールスが、売られた屋敷で一人死ぬが、それとても今此処で死ぬべきだったというだけである。
悲劇と喜劇は表裏一体のものであり、悲観が勝った時には悲劇の相、楽観が勝った時には喜劇の相となって現れる。笑いはどちらに於いても起こる、或いは起こらない。チェーホフのこれまで人間を描いてきたなかでは、否定的姿勢が勝っていたが、1890年代後半から肯定的姿勢が勝るようになり、『桜の園』ではそれが頂点に達しているように見える。