僕は学生運動を知らない世代で、本書冒頭にある安保闘争(60年)と全共闘運動(60年代末)の違いすらピンと来ない読者だ。だから学生運動のアクチュアリティを何とか引き出そうとする聞き手/編集側の意図は余り共感できなかったが、それでも「批評家活動から運動に転回した」という印象を持たれがちな柄谷行人本人が、学部生時代(60年に大学入学)から政治と運動に関する思考を一貫して重ねてきたことを明かした本書は良いガイドブックになっていると思う。特に、90年代に雑誌「批評空間」を出しながらも思想/批評的言説を行うことの時代的限界を感じていたくだりの情況的整理などは、当時僕は大学の授業をサボりながら必死で彼の書いていたものを読んでいた世代なので、非常に説得力があった。
さて、柄谷氏自身はNAM崩壊後に「運動」から「統制的理念」の方に軸足を後退させた人だというのが僕の理解だ。(彼は80年代のポストモダン哲学の興隆は5月革命の失敗を哲学が文学的/想像的に乗り越えるものだったと本書で指摘しているが、彼自身もNAM崩壊後にカント的「世界共和国」の理念に思考の対象を移してこの反復を行っている。)このNAMの崩壊理由は「有能なオーガナイザーがいない」(p.92-93、内藤裕治「批評空間」元編集長の死去を指す)事態に陥ってしまったことのほかにも、どうも色々と泥々した事情があったようだと噂されているが、まあ一般論としてアソシエーションにしろ学生運動にしろ、本書の聞き手と語り手が語るような社会的・環境的な理由のほかにもぶっちゃけ各々の組織の内部運営上の崩壊理由があったのではないかと思う。(連合赤軍の集団リンチ殺人事件は極端な例としても。)かつての「運動」の当事者同士の会話なのにそういう内部検証的/反省的視点を全く欠くのはどうかと思うので、星は渋目に付けた。実際、NAMの解散後に各アソシエーションの活動は上手くいったと柄谷氏本人が本書で明かしているが、組織が上手くいかなかった時には「資本主義」の段階がどうこうという大きな理由の他にも、結構普遍的でしょーもない理由というのもあるだろうと思うのだ。