今これを出版することについて柄谷氏はどう感じているのだろうと思いながら読み始めたが、「小林秀雄を超えて」の中で「テクストに永遠性があるとしたら、それが多義的で読み替え可能、というところにこそあるんだ」と述べているのを読み、ああこれはすでに柄谷中上両氏の手を離れた一つのテクストとして受け取らねばならないのだという当然の事に気付いた。ここにあるのは悪意の声ばかりである。二人の情熱は固定されたパラダイムの破壊のみである。それは解放ということだ。批評の意義とはつまるところその解放にある。解放を妨げる全てのものに対する悪意。その牙はむろん自分自身にも対しても向けられている。同じ所に留まっていることに対する嫌悪、全てを流動の中へと突き放していこうとする意志だけがそこにはある。自論の「正しさ」などというものではなく、「正しさ」というものがここでどう破壊されていくかが読まれなければならない。それこそが「小林秀雄」を「超える」という両氏の目論みに他ならない。
ついでだから補足しておくが、村上龍氏に柄谷氏が呆れられたという事実はない。「中上は癌に逃げた」と柄谷が言い、村上が「よくそんなふうに言えますね」と言った事実はあるが、村上はそのあと、「薄々そう気付いていても、なかなかそうハッキリとは言えませんよ」と続けるのである。僕はその対談を読んだ時、むしろ村上のそのナイーブさに驚いた。柄谷のほうがより残酷に中上を見つめようとする意志があり、中上自身はどちらの姿勢に賛同するだろうかと考える。しかしその一件はまったくここでは無関係な話であり、なぜここでそれが語られているのか理解に苦しむが、無駄な誤解が生じぬよう、一言しておく。