既に社会的評価の定まった本作ですが、自分なりの解釈を交え、レビューにしたいと思います。
一読のみの感想です、しかし、そこに再読したかのような感覚があったのが何故か不思議です。
実は本作、何度か読了まで挫折を重ねています。その文体には、ある種独善的とも言えるほどの
迫真性があり、特異な読力を要求されるからです。こうしたことは、近年の作風にはあり得ないものでしょう。
幸い、ネットに執筆当時のエッセイを見つたので、以下、一部抜粋します。
「ドストエフスキイの小説『罪と罰』を読んだのは高校時代だった、と思う。いや読んだのではなく、
読みかけて途中退屈し、後はとばし読みしたのは、である。それからしばらくして、私にはその
ドストエフスキイは、軽蔑と嘲笑の対象だった。(中略)よくこんなに退屈なものを冗長に書けるものだと、
感じ入り、また軽蔑した。文庫本を次々買って来て読み囓りはするが、冗長な文章につきあっているほど
暇じゃない、とほうり出した。実際、暇はなかった。聴きたいジャズが、朝から自分の耳の中で鳴っていたし、
借りていた部屋の外はペテルブルグではなく一千万の都会の朝だ」
ドフトエフスキーについては、私にとっても似たようなものですが、この「枯木灘」にも、今、同様の思いを抱きます。
この作品は、熊野という場の根拠に最善を恵まれたろう、作者による畢生の名作と評価されますが、その可能性を確かめる意味で、
自身の率直な感想を言いたいと思います。これには柄谷氏の評論などの影響もありますが、凡そそれは、一点に集約されます。
本作中、最も印象的な部分を引きます。
「フサは秋幸を連れて繁蔵と逢引した。まめを繁蔵がかみくだいて秋幸に食べさせた、と言った。いつの日か分からぬが、
映画に行き、秋幸がその画面の中のおどけた男の仕種が気味悪く早く帰ろうと言った。それがチャップリンだった、と後でわかった。
(中略)郁男は自殺した。美恵は気が触れた。秋幸一人、無傷だった。いや秋幸でさえ、ひとたびこの、父と父の子と、
母と母の子の家を出ると、無傷では済まされない。」(P136)
この小説は、中上健次の内面世界の劇です。内面化された熊野の地と血縁は、現実のそれとは別ものである筈です。
そこで中上健次少年にとってのチャップリンと言う他者が告白されます。専横な力の象徴としての父、その柵の下で、主人公、秋幸は、
発作的に兄弟を殺してしまい、その小説世界から逃れ、隠されてしまいます。終結にはそして、幼児性を象徴する徹が強調されてゆきます。
この小説は、中上健次という他者性そのものです。私は終止その人とその世界に突き放されたまま、それを読み終えました。
こんな小説を読んだことは、正直に言ってありません。小説自体が隣人そのものである様なものです。
[強烈なリアリティによる自己の寓話]と、言ってみてもよいでしょうか?多くの作家がこのような境遇に恵まれることはないでしょうし、
以降の日本文学は、この成果を巧みにスキップしてしまったようで、この頃の小説は、小説然として佇んでいる気がします。
「かくして、『枯木灘』という私の処女長篇は、ドストエフスキイという作家に反発しながら書いた。だが、いまひるがえってみると、
反発や軽蔑とは触発というものと同義である事に気づくのである。つまり、さながら敬虔なクリスチャンが聖書をめくり一節を読むように、
深夜、一人、ドストエフスキイを読んでいたように思えてくるのである」
嘗て作家のそうしたように、今、この小説を読み返す者のどれほどあるのか分かりません。
現実の全てである筈もない小説表現の担うべき分とは、ではその先にどんな梢を伸ばすべきなのか、柔らかな葉の表に日を撥ね得るのか、
「枯木灘」とは、寂しい碑銘にならないことを切に願います。
夢の力 (1981年) (角川文庫)