昭和35年11月から翌36年3月の半年足らずに発表された初期の短編集である。
この時期、長編「風の武士」と「戦雲の夢」を連載しながら、十作もの短編を発表している。司馬は非常に多作な作家であったが、創作のエンジンが猛回転し始めたのがこの時期だ。
2ヵ月後の36年5月、勤めていた産経新聞社を退社して作家生活にはいる。その意味でも記念碑的な作品集といえるだろう。
以下、収録作品を発表順に紹介する。(発表年は講談社文庫巻末年表によった)
1)朱盗(昭和35年11月)
740年に大宰府で反乱を企てた藤原広嗣。百済の渡来人との奇妙な交流を描く。司馬は後年、日本人が成立したのは鎌倉以降、とよくいった。日本人成立以前の上代を題材にとった数少ない作品のひとつである。
2)壬生狂言の夜(昭和35年11月)
新撰組隊士と若後家の心中譚。新撰組を取り上げた最初の作品である。
3)牛黄加持(昭和35年12月)
帝の女御に懸想する青年僧の妖しき呪術と官能を描く。純文学的味わい。
4)飛び加藤(昭和36年1月)
上杉謙信と武田信玄に仕えた実在の忍者、加藤段蔵の伝。
5)八咫烏(昭和36年1月)
記紀神話の時代、日本原住の出雲族と朝鮮渡来の天孫族の戦いと融和を描く。
司馬の新聞記者時代の先輩で、大国主命を先祖に持つと称する出雲族の末裔W氏の話に触発されたらしい。同じ36年1月、中央公論誌に「生きている出雲王朝」という論文があって、小説よりも、この論文の方が司馬らしくてよい。
6)果心居士の幻術(昭和36年3月)
戦国の武将、松永弾正に仕えた実在の忍者、果心居士の伝。
なお、文庫で本書のみに収録されているのは「朱盗」と「八咫烏」である。2は講談社文庫「アームストロング砲」に、3,4,6は文春文庫「ペルシャの幻術師」にも収録されている。