著者は“あとがき”で、「いくつもの日本」を孕んだ地域こそが、逆説的ではあるが、グローバル化の時代にたいする抵抗の拠点となる、と執筆への決意を語っている。とりわけ、地域というものに、歴史的な、あるいは哲学的な根拠をあたえたいとの強烈な思いを述べているのが印象的だ。
大相撲と異種格闘技、唐突にも受けとれるこの言葉が不思議なことに本著の重要なメタファーとなっている。つまり、「御国」を背負い、自明のように列島の東西いずれかに帰属して演じられるこの相撲に対して、あえて異種格闘技として南北の軸を立てて論考を企てるのだ。まぎれもなくそのことは、縄文以来の民族史的景観にたいして、「ひとつの日本」というフィルターを自明としてかぶせてゆく歴史認識の作法に異をとなえるものであり、柳田民俗学を相対的に捉えかえす新しい民俗学の発展に一石を投じるものである。
内容的には、箕という農具の論考から言葉やしきたり、さらに地域のはじまり、穢れの民族史へと展開される。その中で文化周圏論の限界を説き、一国民俗学を越え東西論の呪縛から解放されるべく歴史的、文化的な重層性をたどるものである。
最終章では、さらに「東北学、南北の地平へ」と位置づけ野心的論考を企てるのだ。それは、きわめて示唆に富んでいて説得力がある。著者は、稲に覆い尽されたひとつの東北は、西の文化によって去勢された幻の風景にすぎないとし、東北学はいくつもの東北をめざす、と表明している。東北はむしろ、多元的な種族=文化が交わる、南/北の地平へと開かれたカオスの土地だとも…
いくつもの東北から、いくつもの日本へ、そして、いくつものアジアへ。歴史の総体が、そうして再審の場へと誘われていく、とくくられている。地域考(いくつもの日本)から世界を視野にいれる渾身の一冊。