以前から東北学というのは聞いていたが、あまり本気にはしていなかった。今回はじめてその著作を読んでみて、その内容に感激してしまった。本書は、1992年の春に山形に生活の拠点を移したのを機に、東北の各地を歩いて人々に会い、風景に会い、モノに会って「いまだ見出されていない東北」へと思索を広げていくというもので、プロローグのあとに十六章、断章、エピローグと続く本編と解説を収録している。
全体的に柳田國男の一国民俗学が東北を収奪・回収してアイヌを日本一国の圏域からしめだしたことへの反発をバネにして、その反論の証としての具体例を各章で示すという趣向で出来上がっていて、その過程で仏教や修験道、松尾芭蕉の「おくのほそ道」も東北のある姿を隠蔽したと指摘し、エピローグでは菅江真澄並びに宮本常一への憧憬をあらわにしている。紹介してくれる東北の習俗一つ一つが興味深く、自分なりに思い浮かべていた東北の姿に補助線を引いてくれる。読み進めていくと、宮本常一に触発されて刺激的な歴史観を示した網野善彦の思索が、著者によって東北へのまなざしに用いられて絶妙な効果を発揮しているのだと思った。著者の筆致も「境界の発生」での息苦しさはなく、開かれた思考と開かれた文章は読んでいて気持ちがいい。
ただ、津軽衆の自分としては津軽についての記述がほとんどないのが気になったし、ねぶた・ねぷたについての意見も辛辣だったが、著者の意見については納得せざるを得ない鋭さがあるし、逆に津軽の人たちにとってこの著書は読む価値があると思う。。太宰治の「津軽」にも書いてあるが、往々にして外側への視線と外側への好奇心を持たずに内輪で満足してしまうところがあるので、東北全体を捉えて比較の視座を持った上で津軽を考えていくのはこれからとても必要にされていくのではと思う。事実、本書は津軽に反響してくる習俗をいくつも取り上げていて、この内容を重ねて東北像/津軽像を想像/創造していくと面白い展開になるのではと思う。マスメディアによって頭を耕されて植えつけられていく思考のパターンを相対化していくヒントが、ここにも示されていると思う。
そのほかの東北学の著書についても読んでみたいと思った。