いよいよ出ましたという感じです。国辱映画の大傑作とおぼしき伝説の一本です。1950年代半ばの日本のとらえ方に多少なりともいい加減さが垣間見えるからなのですが、監督であるサミュエル・フラー氏からすれば、「それがどうした?!」というところなのでしょう。「映画は戦場だ!」と公言してはばからなかった同氏ですから、好き勝手してしまうのは枝葉のごときことだったのでしょう。それにしてもこれは面白い、力強い、美しい。
ギャングのアジトの珍妙な設え、お手軽な折りたたみ収納型布団セットの唐突さ、着物を脱ぎ捨て洋装に早変わりする踊り子たち、障子が張り巡らされたパチンコ店の変な舞台裏、おかしな日本語などなど、リアリズムにかける描写は数多いけれど、それらは本物のフジヤマ、本物の銀座、本物の松屋デパートとすっかり溶け合って、不思議で強引な説得力があります。ドキュメンタリーと勝手な創作物がこれほどナチュラルに融合するケースも少ないのでは。このなんともいえないシュールなパルプフィクションとオリエンタリズムがこのフィルムの魅力の一つ。
もう一つの魅力は大胆でパワフルなサミュエル・フラー監督の演出。溝口健二ばりのダイナミックなクレーンショット、小津安二郎ばりの畳目線ショットがメリハリのある総天然色のシネマスコープ画面を満たしているさまは圧巻。フラー監督が日本のことを馬鹿にしていたのではなく、むしろわが国の文化を尊重していたことが伝わってきます。そして何よりも日本の風景自体の美しさをとらえてくれているのが嬉しい。あらためて母国の麗しさを教えてもらったかのようです。その美しい風景のただ中に響き渡る銃声と悲鳴。そして平安を切り裂くギャングたちの荒々しい所業。美しいものと物騒なものとのコントラストの妙。麗しいものと生々しく対比させられる張りつめたような男たちの緊張感。これはもうアートです。風呂場で決行されるショッキングな殺しの場面で漂うデカダンス。美しい背景でこのような残虐行為がなされるからこそ効果的なのです。フラー、あっぱれ!
李香蘭こと山口淑子の大和撫子ぶりといったら、チャーミングこの上ない。彼女の口からだから「日本の女は殿方に尽くすよう教育されます」という台詞も何故か許せてしまいます。(しかし、西洋の殿方、だからといって勘違いしないでいただきたい!)冷酷ながら、どこかカリスマ的魅力のあるギャングのボスをロバート・ライアンが好演。目をかけていた男に裏切られ黙りこくってビリヤードのボールをもてあそぶシーンでは「隣にいる裏切り者の頭をいつかち割ってしまうのか」といった緊迫感がみなぎります。さすがフラー、キャスティングの妙も心得ています。名優早川雪洲の存在も嬉しいかぎり。
日米多くの批評家に「くだらないB級映画」、「取るに足りない国辱映画」などと酷評され、未だに一部で十分な再評価が成されていないフィルムですが、棄てる神あれば拾う神あり。公開当時、辛口批評で有名だった『ニューヨークタイムズ』紙のボズウェル・クロージャーは本編を完成度の高い作品であるとして高評価を下しています。また、批評家時代のジャン=リュック・ゴダールはこのフィルムをサミュエル・フラーの最高作の一本に数えています。2011年8月にはニューヨークでロバート・ライアンの回顧映画祭が催され、本編のニュープリント版がシネマスコープの大画面でその最後を飾りました。それに際してタイムアウトニューヨーク紙のデヴィッド・フィアーは「大胆なフラー監督ならではの壮麗さを持ち、ワイドスクリーンのメリットを余すことなく活かし切った傑作である」とこの作品を絶賛。 全編にみなぎる創意工夫、力強さ、映画としての面白さが忘れがたい50年前の作品とは思えないほどスタイリッシュなフィルム・ノワールはサミュエル・フラーがイチバンだったことを如実に後世に語りかけてくれているのです。