六章からなる本章では中国、韓国、北朝鮮といった
東アジアの三国が反日ナショナリズムに固執する、その背景を描く。
一つには、中国は近代の入り口、韓国は近代のさなか、
北朝鮮に至っては中世にいるのであり、東アジアで唯一
ポスト近代にある日本は、こうした異時代の国家群に
「過去からの攻撃」にさらされているという。
ただ、自国が主催する国際スポーツイベントの舞台で
集団で人文字まで作って他国を罵り、皆で悦に入っているような
韓国人や、官製デモで他国の領事館を襲わせる事を外交の
一部とするような中国の、あまりにも愚劣にして醜い様を見るにつけ、
過去においても日本がこのような国々と同様であった事があるとは思えない。
東アジアの三国は日本とは異時代にあるというのは面白い見方だが、
むしろ付論IIでも語られる、日本とこれらの国々との
文化的、精神的な違いが重大ではないだろうか。
本書は実は本章の後にある付論が本章に優らず劣らず興味深い。
付論Iでは柳美里と姜尚中という二人の在日文化人をとりあげ、
被害者としての在日のアイデンティティに陶酔する彼等は
「在日一世の神話化」を目論むが、それは多くの三世、
四世たちを「被害者性」に呪縛し、不幸に導くものだという。
付論IIでは日本と東アジア諸国との霊魂観の違いを語る。
特に東アジア諸国では自分達と「始祖との血縁的な繋がりが
記録によって確認できる集団」である「宗族」以外を
軽視する習慣があり、その周囲を顧みない排他性が
これらの国の近代化の阻害要因にもなっているという。
あとがきには反日問題に対する著者の姿勢が明確に語られている。
「我が国が国際舞台で不当な非難を受け、
日本の文化や歴史や精神を一顧だにしないような取り扱いを受けるのを
甘受するしか東アジアの調和を維持する道がないとするならば、
そのような犠牲を払って得られる平和はドレイの平和であり、
とうてい耐え忍ぶことはできない」
まことに同感である。