四半世紀以上前に本書を読んで、ひどく悪印象を受けた。内容がなじみのない分野だったことは大きかったけれど、なによりも著者の思い入れが強く先行しているようで、なんだか頑固な年寄りの思いばかり尤もらしく語られた印象が強くて、それまで大好きだった小林秀雄から完全に離れてしまう類稀な悪読書を経験した。このたび、改めて再読してみて、印象は180度転換。やっぱり小林秀雄はすごかったというか、最後まで、徹底的な優等生、「本居宣長」以前とは、またまた知識の面でも、大きさからも、各段に進化し続けた著者の偉大さに圧倒された。「総じて生きられた過去を知るとは、現在の己の生き方を知ることに他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己の内部に再生して、これを味わう事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。」という文言は、本居宣長のみならず、契沖、徂徠、真淵、などの先行する巨匠たちの「学」の姿であり、そう言われてみると、小林秀雄の批評そのものがそうだったような気がしてくる。小林秀雄の批評は、空前絶後で、海外のポー、ボードレール、エリオットらのそれとは、全然異なるし、小林秀雄以前の鴎外漱石芥川といった碩学の批評文とも違う。大きな影響を与えた後進の吉本隆明、江藤淳、柄谷行人のそれとも全く異なっている。その違いは如上の引用の文章が、小林秀雄の中核だったという点にあると思うし、小林秀雄が対象を語ることで、読者はその対象を著者・小林秀雄と共に味わう事が出来て、それがまた、小林秀雄の作品を味わうことになるという「体験」の「場」が開かれている、そんな批評文だったと思う。本書のおもしろさは、上巻の真淵とのやりとり。真淵の真骨頂が見事に伝わり、どうやら「学」としては、真淵に比して、宣長が及ばない部分が相当あったと思える一方、「文学」というものに対する理解については、真淵に比べてどこか頽落性を容認しているような宣長の方が、受け皿が大きいというか、理解が大きいことが分かってくる。冒頭折口信夫に「宣長さんは源氏ですよ」と言われた言葉が、得心される。下巻は、徂徠の解説が面白いが、後半、またまた真淵との対比が、宣長との同一性と差異が見事に描かれ、思想の微妙なところが見事に描かれている点は、感嘆するしかなく、著者の本の読み手としての古今無双の力量に圧倒される。三木清のハイデガーの回想のエピソードにハイデガーが「アリストテレスを勉強することが歴史哲学を勉強することだ」と語る箇所が出てくるのだが、三木清がその意味を分かっていたのか分からないが、本書「本居宣長」を読むと、偶然の一致か、ハイデガーの言を、小林秀雄が本書で具現しているように思えた。