中国文学に滅法あかるく、日本語の使い方に一家言も二家言も持つ偏屈おやじが、バッサバッサと浅薄な文化人を切りまくるエッセイ集です。
きちんとした「悪口」は、読んでいて気持ちのいいものです。
高島氏の悪口は、本物だけが発する芳香に満ちていて、芸術品と言ってよいでしょう。
芸術作品は鑑賞するものであって、批評したり解説したりするものではありません。私からは、特に素晴らしいと感じた個所を紹介させていただきます。
漢字をはじめ中国文化の恩恵を受けて日本の文化が成立した、という言い方をよく聞きます。中国文化の影響は否定しないものの、高島氏は「恩恵」などと恩義には感じていないことを強調します。同音異義語が多いことで分かるように、現在の日本語の語彙のうち約半分が字音語 (漢字の音読みで成り立つことば)ですが、高島氏は、これを日本語の宿命的な缺陥と言います。
(「缺」は「欠」の旧字。本書の冒頭に、無分別に旧字を廃したことを糾弾する一文も載っていますが、ここでは措きます)
日本文化は中国文化より誕生がおそかったので、文字も遅かった。もし中国の言語・文字が入ってこなければ日本語は健全に成熟し、いずれやまとことばに適した文字を生み出していたに違いない。
それが、まったく違う言葉と文字の「侵入」によって、日本語は発育を阻止され、音だけでは意味が通じない、文字を見なければ伝達できない言葉ができあがってしまった。と高島氏は嘆きます。
この他、中国文学の造詣が深いだけあって、「ネアカ李白とネクラ杜甫」は絶品です。
また、「知らず何れの処かこれ他郷」で明かされる田舎ぐらしの様子は、ドーデーの『風車小屋便り』を思い起こさせます。
芸術作品には好き嫌いがつきものですが、ぜひ一度、鑑賞してみてください。