田中優子といえば石川英輔、杉浦日向子とともに江戸ブームの牽引役である。しかし本書からにじみ出る田中のスタンスは、江戸社会を「循環する一つのエコシステムとして評価する」石川や「江戸の情緒や風俗を愛着を持って描く」杉浦とはかなり違っているようである。
本書における江戸時代とは「アジアを侵略した」二つの時代、豊臣政権下の日本と明治以降の近代日本、この二つの時代に挟まれた、「アジアの外交秩序に積極的に参加しようとした」「平和」な時代ということになる。つまり、田中は、江戸時代そのものを評価しているのではなく、あくまで、日本の「アジアを侵略した」二つの時代に対するアンチテーゼとして江戸時代を評価しているのである。
だが、田中のように一方的に日本を「アジアを侵略した」「邪悪」な存在と決めつけてしまうと、「被害者」として設定されたアジアは常に「正」であり「善」でなければならなくなってしまう。
そのために、あちこちで、おかしな歴史認識にぶちあたり「どういう風に解釈したらこうなるのか?」と、江戸から学ぶと言うより、田中個人の見識や人間性の方に興味が行ってしまう。
特に日本に直接「侵略」の被害を受けたとする朝鮮に対しては極めて同情的であり、たとえば文禄慶長の役を一貫して「侵略」と表現する一方、高麗が元とともに日本を「侵略」した元寇を「日本征討」と記述している。おそらく田中の中では「邪悪」な日本を「正善」な「アジア」が懲らしめると言う構図なのだろうが、同じ行為でありながら一方を「侵略」、一方を「征討」とするのでは客観的、公平な記述とはいえないだろう。
そのほかにも、文禄慶長の役を「朝鮮戦争」と記述していおり(朝鮮戦争と言えば1950〜1953の韓国と北朝鮮の38度線を巡る戦争だと考えるのが一般的だろう)、また江戸時代には存在しなかった「朝鮮民族」(民族と言う言葉自体、明治日本において、近代思想の導入期に「nation」の訳語として作られた言葉で、もし江戸時代にそれを言うなら「朝鮮人」が適切だろう)と言う言葉を使っており、歴史用語でも正確さを欠く。
全体として朝鮮韓国の歴史認識をほぼ丸呑みしており、田中の周辺に田中の思想に影響を与えるような、そういう方面の人物がいるのだろうかと言うところまでかんぐりたくなる。
ところで、田中といえばTVなどで見る凛とした和服姿が思い浮かぶが、本書で田中の思想を知れば田中の和服の意味も自然と分かってくるだろう。田代和生の「
朝鮮通信使と日本人―江戸時代の日本と朝鮮」によれば、現在の和服は江戸時代に完成したものだからだ。つまり、田中にとって江戸時代に完成された和服を着る意味とは、洋装を近代化のメルクマール、指標とした「アジアを侵略した」近代日本を拒絶するシンボルなのである。
本書は江戸から学ぶというよりは、むしろ田中のアジア主義思想に合うように江戸時代や同時代のアジアの歴史を歪曲し田中にとっての理想の江戸時代像を作り出し、自らの主張に説得力を持たせるために利用している。そのため、随所で田中独特の強引な解釈がなされており、本来の目指すところである読者が江戸時代から教訓を引き出すと言う点に関してはあまり役に立ちそうにない。
もし読者が、本来の趣旨である「江戸」という一つの文明形態から未来につながるヒントを得たいなら、偶然にも同時期にほぼ同じ趣旨で刊行された、歴史資料を用いて客観的に歴史をとらえることに定評のある東京大学史料編纂所教授である山本博文の「
江戸に学ぶ日本のかたち (NHKブックス)」の方が適切だろう。