それにしても、長年自分の同じ話ばっかりあっちこっちで書く人だなあ、とあきれた。とにかく、自分が大学に入る頃までの話と、ハイデガーに出会う話を、到るところで書き、話しているに違いない。こういうことは、普通は、一生に何度も書かないものなのに。何か重みが無くなる。でもマッハのことがちょっと出ていたので気になって買って読むことになった。尤も、最終講義なので、専門的な話にはならない。こういう話なら知っている人もいるでしょう。でも、そこは熟練の技で、要領良く、分かりやすく事実関係を示しています。ハイデガーの「存在と時間」のお説も、何度も伺いました。でも、どうして、「存在と時間」が単なるエピソード以上のものではない、と力説するのだろう。非常に性急に纏め上げられ飛躍があることは、そうなのだろうし、その後の展開も分かるけど、書物とは、作者の履歴に解消されることが正しい解釈なのだろうか。著者の本は整理された事実関係で明快なことは確かなのだが、フッサールやハイデガーを読んでみると、この人の解説に出てこない色んなことがあるのだ。かつて、清水幾太郎がコントを書いてしまって、彼の紹介枠でしかなかなかコントが見えなくなってしまったように、或る時期、この人の紹介枠でしか現象学が見えず、原典に当たると、却って分からなくなることが多かった。そういう意味ではとても個性の強い人なのだと思う。著者は若年の頃、ドストエフスキーやキルケゴールが好きで、ハイデガーを読むために哲学をやった、と言っているが、書いた本を読むと、良い悪いは別にして、ドストエフスキー・キルケゴールからハイデガーという、なにかお決まりコースの人にありがちな、内面性に無闇に傾斜していく、そういう叙述も性格もまったく見受けられない。明快でさぞかし良く売れるだろう、と思うような形式的に整った記述だ。そう言えば著者は、ハイデガーの翻訳も殆どしていない。いっぱい翻訳をやっているメルロ・ポンティについては殆ど言及も無ければ、長期に没頭した「内的な」理由も聞いたことが無い。一見整ったかに見える翻訳の文体も、意味が大変通りにくく、あれでメルロ・ポンティが分かった人は居ない筈だ。すると、表面に出ている事実と、書いてある「精神的履歴」は、何かちぐはぐで釈然としない。結局哲学者というよりは、「哲学」を「マーケット」に載せた「はしり」だったと思える。