震災3ヶ月後に行われた、リスク・コミュニケーションをテーマにしたチャリティ・シンポジウムを本にしたもの。
政府やマスメディアの姿勢を終始批判する上杉氏に対して、情報を受けとる側がメディア・リテラシーを高めて自己責任で判断するしかない(p.22-3,107-8)と述べる内田氏はおおむね常識的に見えるし、「マスメディアは信用しないが、ツイッター情報は信用する、というのはおかしな話」(p.21)として「メディアが報道しない裏情報」の胡散臭さを指摘しているのも真っ当に思える。
しかしその内田氏じしん、記者個人による「ここだけの話」が有用だったと言っており、自分の得た裏情報の信憑性を区別しようと「ジャーナリスト個人の感じる身体的不安」(p.20)だとか「生身の身体実感」(p.22)だとか、やたらと身体性をもちだすのは感心しない。
それだけならまだしも、議論の後半で内田氏はこうした「体感」の観点をさらに飛躍させ、武道家は貿易センタービルに飛行機が突っ込んでくる危険を察知できるとか、「そういう感度がいい人はシステマティックに危険を回避するようになる」ので、原発の設計管理にあたるべきだとかいった話を大真面目にしはじめる(p.108-111)。鷲田氏も「成果が出ていない」と言いながら怪しげな「異変を察知する能力」をもちだして同調するなど、どうにも眉唾な展開である(p.113)。
9.11の惨事について内田氏は、
「おそらく、あの日も、なんとなくここにいたくないという気分になって、ビルを離れて難を逃れた人は何十人、何百人という単位でいると思うんです。でも、そういうことについて統計的なリサーチって誰もやりませんね。」(p.108-9)
と言うが、自説の根拠をしめす責任を他人になすりつけたりせず、自分でリサーチすればいいのである。ちなみに、そのような人を「何百人という単位で」集めたからといって、そうした気分に根拠があることにはならない。また、こういった類の直感なり第六感の有効性を実験によって探る試みは、少なくとも認知心理学ではそれなりに行われてきたが、内田氏が望むような結果が得られたという話は聞かない(『
錯覚の科学』)。
防災対策を現実に考えるうえで、こうした話につきあう意義がどれだけあるだろうか。9.11といえば、貿易センタ−ビルにあった会社のセキュリティー責任者が、事前の周到な準備と繰り返しの避難訓練によって多くの命を救った事例がある(『
生き残る判断 生き残れない行動』)。自分で検証する気もない超能力の育成が「防災上の最優先課題」(p.111)などとうたう内田氏の話より、こうした事例の子細な検討から学んだ方がよほど危機対応に役立つように思える。
「どこかで踏みとどまって、「自分で責任が取れる範囲のことしか言わない、言ったとには自分で責任を取る」という規矩を自分の発言に課すという節度を立て直さなければ、私たちの社会の言論状況はさらにとめどなく劣化してゆくほかないだろう。」(p.149)
内田氏は本書の末尾(補稿)でこのように述べるが、上記の発言をしていた人の言葉とは思えない。「リスクコミュニケーション力」というタイトルも、皮肉のようで何とも虚しくきこえてしまう。