職場の書類は全てデジタル。家庭でも、老いた両親にさえメイルで会話。下手な手書きに代わって、綺麗なPCフォントで、手軽に書けるのですから、誰でもデジタルに靡きます。そんな時代でも、何故か毛筆で書く「書」が気になります。失われてゆく伝統技芸への郷愁でしょうか。せめて字ぐらい綺麗に書く技を習って、自分流の書を見せたいためでしょうか。そのように、書は、そもそも字を美しく見せる技術(テクネー)なのか。あるいは技術よりも広い人間の本質的な表現活動なのか。そんな根本的な問が本書の主題です。
論の進め方は、先ず「書とは、××である」という命題を提示して、演繹的に筋を運んでいます。そのため切り口上に聞こえます。その上に、新たに着目した現象を特色付ける為に馴染みのない言葉が使われます。また多義的な言葉を頼りに、現象の違う局面を露にして論を広げているので、単なるレトリック風な言葉の羅列に見られます。おまけにワープロ変換への反対も言及されています。一見して取り付きにくく、敬遠されそうです。
本書では、文を書くという行為が、生成する時間的経過に沿って、独立した細かな要素に、分析されています。そこから書の根底を、なまの触覚にまで戻って考えています。具体的で刺激的です。さらに個人心理的過程の分析だけでなく、楷書の書体史上の意味など歴史的過程の分析もされています。独創的です。それらを単に理屈だけでなく、中国や日本の有名な書の実例を示しながら、丁寧に解説していて誰でも理解できます。当初は唐突に思われますが、読み終わると、「書とは逆から読まれた文学、ネガの文学である」という著者の命題が、無理なく納得できます。抽象的な命題部分にひるまずに懐に入る気持で、説明部分に飛び込めば、現実感が濃い誰にでも判る具体的な世界に入ることができます。書の本質論だけではなく、書の本来の見方も教えてくれます。目から鱗が落ちます。