「社会」の概念に人の関係が顔見知りか否かの区別はない。
しかし「世間」には、顔のみえる「ウチの世間」とみえない「ソトの世間」があり、
阿部世間学が対象としているのは前者である。
名刺などを交換し「知りあって」からつくられる[個人個人を結ぶ関係の環](阿部謹也)
だから「世間は狭い」はずである。
贈与互酬の関係、共通の時間、長幼の序などを特徴とする「ウチの世間」からみれば、
そもそも「ソトの世間」は眼中になくどうでもいいのである。
さらに「世間」は「社会」にも包摂されず、掴みどころのない何とも手に負えない代物
である。
本書はそんな「ウチの世間」のオキテ(同調圧力)に呪縛され苦悩している日本人
に、前著『世間の目』と同様「ビビる」や「なーる。」などのヤバイ言葉を駆使(?)
して、軽妙な文章でその悩みの構造を暴いてくれる。
もちろん悩みのタネを明らかにしても「一発即解決」の道を示すことはしない。
それは「世間」がまだ相対化されていない現段階においては,無理ではないだろうか。
(ただ単に同調圧力に負けない対処療法としては、社会学者・宮台眞司の提言する
「多元的所属」(タコ足化)によって「東京がダメなら大阪があるさ」と所属する世間
を複数化することで持ち耐えることは可能であろう。)
しかし、本書でも世間とのつきあい方、捉え方の方向性は、窺い知ることができる。
対象が「ウチの世間」なのだから、それを一番知っている自分が「疑いえない」
ただ一つの自分の感覚で体験をすればいいといい、フッサールのエポケー(現象学
的判断停止)を援用し、従来の西洋の二元論的認識方法を一旦棚上げにして「感じた」
ことに言葉を与えろという。
案外フッサールのいう「生活世界」と「世間」は近いのかもしれない。
著者はこれを自身の「恋」の体験を例に説明しているが、物足りない読者は著者
の別書『世間の現象学』を紐解けば、その本意をさらに詳しく知ることができると思う。
「世間学」のユニークな視点は、西欧が「世間」をキリスト教により歴史的に無くして
きたと規定し、特殊なのは日本の方ではなくヨーロッパ文明社会であるとするところである。
これは単なる逆転の発想ではない。読んで目からウロコが・・・・・。