主に80年代後半、コロンビア第二の都市メデジンでは、十代の子供たちがギャング団に属し、職業として殺人を請け負い、自分の命を代償に賭けを行うかのごとく、金やら(彼らにとっての)名誉やらを手に入れようと殺し合いに励んでいた。
ひとつには、麻薬カルテルの争いや歴史的な政治暴力の中で、暴力行為やその最終形態である殺人さえもが日常茶飯事に過ぎなくなっていたからなのだが、盆地の高度に反比例して様々な階級に棲み分けられたこの街では、多くのラテンアメリカの国同様、富の不均衡は恐ろしいばかりで、ギャング団が未来の職業の選択肢のひとつとして羨望の対象になるという、ぬるま湯の平和に浸かった我々には想像できない過酷な生き方を強いられる若者が多く存在していたのだ。
筆者は NGO組織の援助を受けてその当事者たちに数多くのインタビューを行い、この本を書き上げた。だから、ここにまとめられた声は、特殊な事例ではなく、典型的なものばかりなのだ。死にかけたギャング団の少年、その母親、少年たちを狩る自警団の若者、もっと安全な悪の道を選んだ者、別の道を選んだ者。彼らの物語は映画なら逆に陳腐に映るかもしれない(驚くべきことに、純粋にフィクションである映画が逆に彼らの規範に大きな影響を与えている、だから映画的に見えるのも当然かもしれない)。ひとりひとりの人生、その死が、それ自体ひとつの映画のような生き方。しかも、暴力的な死で悲劇的に絶ち切られる物語ばかりだ。本来すべてが別の物語であるはずだが、多くの悲劇同様、その全容を掴むことなど出来ようはずがない。
90年代になって麻薬カルテルへの取り締まりが強化され、その中心がカリに移った後、今では状況はこれほどひどくないのだという。この街出身の誰かが別の場所でそう書いていた。確かに、このすべてが解決したとは言わない、しかし大分マシになったのだと。本当にそうであれば、と心から願う。とはいえ、同時にこうも思ってしまうのだ。この街の高級住宅街に暮らすならこんなことを見る必要はないのではないかと。コロンビア出身の作家ガルシア=マルケスが勧める小説「ロサリオの鋏」を併読すれば、確かに階級間の断絶を感じるはずだ。
さらにこうも考えてしまうのは、あまりにも不謹慎だろうか?
全然戦時下ではないぬるま湯社会に生き、ひたすら頭だけで肉体を感じず生活する中で、生きる理由を見出せず殻に閉じこもって死を選ぶくらいなら、短くはあれ自分の命を賭けて何かを勝ち取ろうと闘う生き方の方がまだマシなのではないか?もちろん彼らより不幸な者が我々の国にいるなどと言えば、殴り殺されても文句は言えないが。