先日の第144回芥川賞受賞ニュースで、独特の風体をして報道陣の前に表れたのが、この『暗渠
の宿』を著した作家西村賢太だ。本書は、彼が受賞する約5年前に書かれた中編二作を収めた著
作の文庫版。
二編とも、今風に言えば「だめんず」の男の「私」小説なのだが、そのような甘ったるい、女性受け
するようなネーミングでは到底表現できない、独特の苦みと渋みを有している。おそらく多くの読者
が読み始めて最初に目を見張るのは、小説全体にただよう絶妙な時代錯誤の感覚だ。本当に21世
紀の作家なのかと見まがうほどの埃っぽさ、新品でありながらポンポン叩けば埃が出てくるのでは
ないかというくらい、時代錯誤でいて、かつ生々しい。
どろりとした粘性の高い文体で書かれるのは、男の惨めさと女の汚さ。ちょうど対のような関係になっ
ている二編によって明らかになるのは、結局「女」に翻弄されようが、「女」をものにできようが、「私」
という男の中には治癒できない圧倒的な「不適応」という病があるということ。
ああ、騙されるぞ騙されるぞと思っていたらやっぱり騙されたり、上手くいかねーぞ上手くいかねーぞ
と思ったらやっぱり上手くいかなかったり。当然ながらこれはストーリーの妙を楽しむものでない。読
む側もいたたまれないほどのダメな人間のダメっぷりを、本当にダメだなーと深いため息を吐きながら
楽しむものだ。著者はそれを、文芸にまで昇華させている。しかもそれが、彼の実体験(推定)だとい
うのだから、恐れ入る。まさに身を切って作家をしている。