長年、「暇=退屈」と思ってきたが、哲学者はそう単純には考えないものだ、ということが分かる本。ハイデッガーの分類に従い、「退屈」には「暇があって退屈している」状態の第1形式と、「暇がないが退屈している」状態の第2形式があり(分かりにくい状態だが本書の解説を読んで納得)、人間はおおむねこの第2形式の退屈を生きている、というのが先ず本書前半の幹となる考察である。この幹に至るまでに、本書前半で著者は一万年前の人類に起こったという大変化(遊動生活から定住生活へ)の中に「退屈」の発生源を見出し、「退屈」の正体を突き止めようとパスカル、ルソー、マルクス、ガルプレイスなどの論考のみならず、フォード大量生産方式や映画「ファイトクラブ」などにも言及する。その説明は「退屈」の解明に向かって手際よく、説得力を持つ。そして、著者自身「退屈論の最高峰」と位置付けるハイデッガーの『形而上学の根本諸概念』をベースに「退屈」の考察を深めることによって、人間が「正気」で生活していくとは、「気晴らし」と「退屈」とが絡み合った上記第2形式を生きることではないかーと、人間の生の本質に迫るハイデッガーに共感を寄せる。
本書後半は、そのハイデッガーの結論ー人間は退屈できるからこそ自由である。だから決断によって人間の可能性である自由を発揮せよーへの疑問が提示されるところから始まる。ハイデッガーは人間を動物から何とか区別しようと腐心しているのではないか?と懸念する著者は、この結論に疑問を呈し、日向ぼっこするトカゲ、哺乳類の血を吸うために18年間待つダニ、満腹になるまで延々と蜜を吸うミツバチの行動を分析しつつ、彼らが一つの環世界に浸っていることが得意であることを丁寧に検証する。一方、人間もこれら動物と同じく各人固有の環世界を生きているが、一つの環世界にとどまってはおられず、環世界間を自由に移動する存在であり、その自由こそが人間の退屈の根拠であることを説く。我々人間は、そういう人間であることを楽しみ、時として、トカゲやダニにように「動物」になることを待ち構える存在である、と。
さて、毎日毎日時間に追われる我が身(第1形式にいう”奴隷”状態にあります)に照らせば、「退屈」な時間とは贅沢以外の何物でもない。一度、徹底的に「退屈」な一日を過ごしてみたいと思っているが、「退屈」も、さて今は第1形式か第2形式か(本書では第3形式まで考察されている)などと哲学的分析や分類に追われると、おちおちボーッとはしておられまい。だから、たとえ”奴隷”状態にあろうとも、”時の経つも忘れる”状態は人間にとっては最も幸せな時間ではあるまいかと思った。